寺津城主大河内氏と松平伊豆守信綱

三河の文化を訪ねて  第97回

- 西尾-

寺津城主大河内氏と松平伊豆守信綱

西尾市立幡豆小学校長
岩瀬 豊治

「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱

松平信綱(1596~1662)「伊豆守と知恵比べなどするはおろか。あれは人間というものではない。」

江戸幕府初期の大老酒井忠勝は松平信綱をこう評した。信綱の才気は、幕府最高首脳の忠勝から見ても群を抜いて映ったようだ。その才気ぶりを伝える逸話も多く人々は信綱のことを「知恵伊豆」と呼んだ。

松平信綱は、同じ近習から老中に登りつめた阿部忠秋とともに、三代将軍家光時代の主要人物であり、事実上の幕府政治の主宰者であった。

幕府政治は、家光の治下で大いに整備されたが、信綱を中心とする幕閣は、幕府政治の確立・運営に大きな力を発揮し、江戸幕府二六〇年の基礎を築いたと言えよう。

寺津城と大河内氏

大河内氏の居城があった「寺津城址」西尾市の寺津町には、国道二四七号線が通っている。この国道を平坂から一色に向かうと、右側に瑞松寺という浄土宗の小さな寺が見える。昔、この寺を中心とした一帯に寺津城があった。寺津城は大河内氏の城で、一〇代目信政が一六世紀初期に建てたと言われている。

江戸時代の嘉永年間(一八四八〜五四年)の頃まで城址がはっきりと残っていたと言われる。寺津漁港の入江を背にした城址一帯は、海岸沿いの台地上にある。
特に西の端、稲荷神社を祀る小さな祠のある辺りは一段と高くなっていて、付近の民家の屋根と同じくらいの高さがある。
前方約七m 、後部約一五m 、幅約二〇m近くの台地を中心にして、寺津城が築かれていたのであろう。北側と南側にそれぞれ幅約五m と九m の濠、西側の絶壁上の土居は高さ約二m 、幅五m 余りほどあったという。明治の初め頃までは大木が生い茂り、昼でも暗かったようだ。現在は「寺津城址」と刻んだ大正二年建立の高さ二m ほどの石碑と、西側の稲荷社の周りに残る樹木に当時をしのぶのみである。

大河内氏の氏神 寺津八幡社

大河内松平氏

大河内氏略系図大河内氏の初代は顕綱である。顕綱の祖父は、保元・平治の乱で活躍した源頼政である。頼政は治承四年(一一八〇)、宇治川の合戦で平清盛と戦い敗れた。この戦いで頼政も兼綱(顕綱の父)も命を落とした。しかし、二歳の顕綱は母親と一緒に三河に逃げ、岡崎の大河内に住んだという。
このため、以後顕綱の一族は大河内を名乗るようになったと伝えられている。

大河内氏は、二代目政顕が吉良氏の家老になって以来、代々吉良家の家老として仕えてきた。一二代目秀綱の時、主君吉良義昭は、岡崎の松平元康(後の徳川家康)と戦い、永禄四年(一五六一)の東条城を中心とする一連の攻防戦の中で、敗れてしまう。そして、続く永禄七年(一五六四)の三河一向一揆の際の戦闘で、吉良氏は元康に敗れ、滅びていく。

その時に寺津城も落城した。そして、吉良氏滅亡後、秀綱は吉良家臣の多くが徳川方に帰属していく中、誰にも仕えずに隠居していたが、名を改めた徳川家康からの再三の懇願を受けて、次男大河内正綱を「十八松平」の一つ長沢松平正次の養子に出した。この正綱が後に江戸幕府初代の勘定奉行となった松平正綱であり、正綱の兄久綱の長男が大河内(松平)信綱である。

 

叔父松平正綱

成瀬正成や安藤直次らが、幕府の中心から、家康の子どもたちの守り役となって去っていくのと入れ替わるように、松平正綱、板倉重昌らの近習出頭人が活躍し始めた。近習出頭人とは、武功や家柄にあまり関係なく、その個人の才能が高く評価されて家康に登用された人たちのことである。
彼らの台頭は、幕藩体制の組織づくりに際し、民政の充実が急務となったことを示している。中でも、勘定頭として、幕府の財政を担当した松平正綱は、「天化群国の吏務、貢賦の決算をつかさどり、要劇の職にありて終に一時のえん帯なし(大意 全国の数多くの金銭に関する仕事や事務をしながら、決して問題を起こすことがなかった)」と、新井白石にその能力を高く評価されたほどの人物であった。

松平一族となった正綱は、文禄元年(一五九二)より家康の近くに仕えるようになった。算術が得意だったことを生かして、事務関係の仕事に力を発揮していった。そして、慶長一四年(一六〇九)には、幕府の勘定奉行に任じられ、駿府(静岡県)と江戸の財政を担当することになった。その当時の幕府の収入源は、天領(慶長末で約二四〇万石)からの年貢の他、貿易、商業流通などからの税金である運上金に加え、貨幣鋳造から生じる利益、金銀銅山経営と貿易からの収入など膨大で、その集約はとても複雑だった。その会計のほとんどすべての実務を駿府の家康の下で正綱が担当していくことになったのである。

勘定奉行は、財政の仕事だけでなく、天領の農民の訴訟を扱う権限ももっていた。寛永一二年(一六三五)に、幕府の組織や訴訟制度などについての決まりが作られたが、その中で関八州(関東地方)の代官・農民の御用と訴訟の裁決は松平正綱以下数名の者が担当することと定められた。正綱らは財政だけでなく裁判をも担当していたことから、幕府の正綱への信頼度が特に強かったことがわかる。

正綱は秀忠、家光の二人の将軍に仕え、事務的な仕事をこなす有能な民政官として活躍し続け、寛永二年(一六二五)には所領として二万五千石を与えられるまでになった。こうした将軍の恩義に報いるために正綱は、東照宮に至る日光街道に杉並木をつくることを考えた。正綱が杉の植樹をし始めたこの年は、家康が亡くなってからちょうど一〇〇年目のことであった。

正綱の養子になった信綱

松平信綱略年表慶長元年(一五九六)、信綱は、幕府の代官であった大河内久綱の長男として生まれた。

ある時、叔父の松平正綱が考えごとをして座っていると、大河内三十郎を名乗っていた信綱が来て、「お願い申し上げたいことがあります。」と言った。正綱は、「改まったことで、何事か。」と言うと「私は代官の子で口惜しい。恐れながらおじさんの名字をもらって養子になりたいと思います。」と答えた。正綱は笑って、「まだ幼少の身で本名を捨て、私の名字を望むのはどうしてか。」と尋ねると、信綱は、「私の大河内という名では将軍様の近習を勤めることはできないでしょう。もし養子になって松平という名前をもらえば、将軍様の側近くで奉公できるかもしれません。」と答えた。正綱は信綱の志をふびんに思い、「三十郎の両親に話をして了解を得られれば養子にしよう。」と答えた。両親も了解したので、信綱は大河内の姓を変え、松平三十郎となった。時に、信綱六歳であった。その後、信綱の願いが通り、慶長九年(一六〇四)小姓となり、日夜家光のために仕えたのである。

家光に対する忠誠心

二代将軍秀忠の寝所の屋根に雀が巣を作り、ひながかえっていた。幼い家光は、小姓である信綱にひなを捕らえてくるように命じた。ひなを捕らえるには日中より夜間の方がよいということを聞いて、信綱は日没を待ち、密かにひさしをつたったが、庭に落ちてしまった。秀忠が賊がでたと思い、刀を取って外に出た。夫人もろうそくを持って従った。秀忠が捕らえてみれば、信綱だった。秀忠は「お前をそそのかした者がいるだろう」と問い詰めたが、信綱は決して答えなかった。
事実を話すと家光が叱られると思ったからだ。そこで、秀忠は、大きな袋の中に信綱を閉じ込めて縛り、「わけを言え」と言ったが、それでも信綱は答えなかった。次の日の昼過ぎに再び詰問したが、罪を謝るだけで他のことはいっさい何も言わなかった。秀忠も夫人も、家光の命令でやったことだろうと察し、信綱を許した。この信綱の振る舞いを見て、秀忠は夫人に、「信綱は幼くして主君を重んじる忠勇のようである。後にきっと有能な家来になるであろう」と言ったと伝えられている。

知恵伊豆のエピソード

信綱は、知力に優れ才気あふれて「知恵伊豆」 と言われた。信綱の逸話は多く、その中から三つ紹介することにする。
一つ目は、江戸城二の丸廊下の橋のそりの勾配を決める時であった。信綱は、扇子を開き一間ずつたたみ入れ、家光の気に入ったところをもって勾配を決めた。この出来事が信綱の出世の始まりで、信綱の家紋は三本扇とした。
二つ目は、寛永一六年(一六三九)、江戸城本丸が火事で焼けた時のことである。家光は信綱に天守閣の修復を命じた。その時、既に信綱の家では作事奉行らが天守閣の白壁が風雨にあっても、寒暑にあっても耐えられる練り土はないものかと相談していた。信綱は、「火事がなくても天守閣の修復は行われると思い、二〇年前よりどういう練り土がよいものかと吟味していました。」と言って、研究していた五つの練り土を見せた。
三つ目は、明暦三年(一六五七)の明暦の大火の時であった。その翌日、水戸藩の徳川頼房が、「火事のことが心配なので水戸より江戸に人を送るので使ってほしい。」言ってきた。これに対して信綱は、「江戸は火事のため、物がなくなり物価が上がり、庶民が難儀しております。こんな時は江戸の人間を減少させることこそ大切なのに、江戸に水戸の人が多数やって来ると江戸の人々は余計難儀します。」と言って、この申し出を断った。そして、信綱は江戸にいる武士を国許に戻す方がよいと考え、江戸城詰番の諸大名にいとまを与えた。

島原の乱を平定

島原の乱合戦図屏風寛永一〇年(一六三三)、信綱は六人衆の一人になり、寛永一二年には老中に昇進した。寛永一六年には、埼玉県川越藩七万五千石の領主となった。堀田正盛、阿部忠秋らとともに幕府の政治の中心となり、武家諸法度の改訂や参勤交代の制度化、鎖国の完成など、幕藩体制の確立に努めた。また、由井正雪らの慶安事件や明暦の大火の処理など、信綱は数々の業績を残した。その中でも有名なのが、島原の乱を平定したことである。島原藩主松倉勝家は、三年来の凶作にも関わらず、年々年貢を増やし続けた。そして、年貢を納めきれない農民たちを水牢で責め、あるいは手足を縛った上、蓑を着せて火をつけるなど残酷な刑を科してきた。勝家の悪政に耐えかねた農民は、ついに寛永一四年(一六三七)一〇月、島原・天草地方で一揆(島原の乱)を起こした。一揆には多数のキリシタンの参加があり、宗教一揆の色彩を帯びた。

一揆の報に、幕府は、板倉重昌を上使として九州に向かわせた。一揆側は、有馬氏の古城である原城にたてこもり、殉教の精神によって堅く結束し、籠城したので、重昌が諸大名の兵を従えて再三攻撃を加えても、どうすることもできなかった。

ことの重大さを知った幕府は、松平信綱と平田氏鉄(美濃大垣藩主)を上使として現地に送った。信綱らの討伐軍が来ることを知った重昌は、信綱が到着する前に、城を落とさなければ面目が立たないと考え、寛永一五年(一六三八)の正月元旦を喫して総攻撃を加えたが、失敗して戦死してしまった。

正月四日、有馬に到着した信綱は、短期間に城を落とすことができないことを知り持久戦に持ち込んで、城の食料が尽きるのを待ち、干し殺し作戦を展開することにした。この間も信綱はしきりに知恵を絞り、いろいろな手を打った。まず、平戸からオランダ船・デーリップ号を有馬にまわして、原城沖から砲弾を発射させた。この作戦は、細川忠利などから一揆に外国の力を借りることは恥だと非難され、途中でやめてしまったが、次に、矢文の計略を用いた。信綱は、肥後で捕らえられた天草四郎の母や姉を連れてきて、彼女らの手紙を城中に持参させて降伏を促した。

そんな時、城内の兵隊を捕らえて腹を開いてみた。胃の中には海藻しかないことを知った信綱は、籠城を続けている兵たちも既に戦う気力がなくなっていると判断し、二月二八日に総攻撃を開始。ようやく城を落としたのである。

信綱の死

家光が死去した時、堀田正盛らは殉死を許されたが、信綱は家光の遺命として家綱の補導を命じられた。そのため世の人々は信綱を、

伊豆まめは豆腐にしてはよけれども
役に立たぬはきらずなりけり
仕置だてせずとも御代はまつだいら
ここにいずとも死出の供せよ

と非難した。

一方で、新井白石は『藩翰譜(はんかんぷ)』の中で、家光時代よりも、むしろ四代将軍家綱時代に評価すべき治績が多いと述べている。その治績とは、家綱が成長するまでの恩賞の禁止、各大名家からの証人(人質)の廃止、殉死の禁止などである。

寛文二年(一六六二)三月一六日、信綱は死去した。五九年に及ぶ将軍(家光、家綱)への奉公であった。信綱の遺言は、「家光、家綱親筆の御内書と島原の乱討伐の感状数通は、後の人が読むと問題が起こるので、必ず焼いて灰をえりにかけて埋めよ」とのことであった。死んでもなお幕府のことを思う信綱であった。

信綱の子孫は、長男輝綱が三河吉田(豊橋)藩七万石の領主、信興は分家して高崎藩八万二千石の領主となり、明治維新まで代々続いた。そして、明治以後、松平から大河内に復姓したという。

参考資料
『西尾を築いた一〇〇人』上巻 西尾市教育研究会社会科部