水神 西澤眞蔵 枝下用水の原点を求めて
三河の文化を訪ねて 第100回
- 豊田-
水神 西澤眞蔵 枝下用水の原点を求めて
豊田市立石野中学校
伊藤 俊満
はじめに
枝下(しだれ)用水域の農民が、詠んだ歌です。
また、豊田市内には、西澤眞藏(にしざわしんぞう)の顕彰碑や神社が数多く残されています。西澤の苦労に感謝して、その恩を忘れないようにするために、今でも各地で法要や祭礼を行っているのです。
明治時代に生きた西澤が、現在に至るまで感謝され、水神となったのはどのようなできごとがあったのでしょうか。その軌跡をたどりながら「枝下用水」の原点を訪ねていきましょう。
水不足に悩む人々
現在の豊田市猿投(さなげ)地区や高岡・上郷地区のような台地では、川の水を使うことができず米づくりに適していませんでした。人々は、共同でため池を掘るなど水不足に大変苦慮していました。しかし、明治十年ころから、猿投地区である旧愛知県西加茂郡地域には新用水開削の機運が高まり、越戸、花本、荒井の三か村の有力者らが、幾度となく愛知県へ開削計画を提出しました。県や国から許可は下りませんでしたが、県は、矢作(やはぎ)川の水を取水し、西枝下村から四郷村唐沢川までの水路を試掘するなど前向きな姿勢を見せ始めました。本格的に枝下用水開削事業が動き出したのは、明治十九年(一八八六)山口県出身の時田光介、大倉直市郎らの計画に許可が下りてからでした。
開墾成功後に土地だけの代価で官有地の払い下げを許可すること、用水完成によって不要となるため池の無償払い下げと配水料の下付という条件に、二人の出資者が現れました。滋賀県出身の西澤眞藏と大阪府の村松嘉兵衛です。
枝下用水開削事業のはじまり
西澤眞藏は、弘化元年(一八四四)滋賀県愛知(えち)郡愛荘(あいしょう)町野々目(旧秦荘(はたしょう)町)に生まれました。麻布を販売する生家の仕事を受け継ぐと、大阪に店舗を構え、長崎にも支店を設立するなど、近江商人として商才を発揮しました。また、国立銀行の取締役に就任した西澤は、その他にも製糸工場、洋服会社、輸入販売会社などを設立する企業家の道を進んで巨万の富を手にしていきました。そんな折、彼の取引先の一つである愛知県三河地方の
西加茂郡猿投地区と碧海(へきかい)郡高岡・上郷地区の困窮する人々のためにと、枝下用水開削工事遂行のための出資を懇願されたのです。
こうして本格的に水路開削の共同事業が始まったのですが、工事は困難を極めました。明治期の土木工事は、現在のように近代的な土木機械での作業ではありません。開削に携わった村人は、開墾鍬や備中鍬で掘り進め、もっこで土砂を運び出すという、人力で、しかも気の遠くなるような遠距離の作業を強いられました。山の中を掘って用水を通す工事は想像以上に大変なものでした。『高岡町誌』には「上流の深堀等の難工事もあり、これに参加する時は、朝、家内と水盃(みずさかずき)で出かけるほどであった。」と記録されています。まさに、家族や村のための命懸けの土木工事だったのです。
「よだれ用水?」
さらに、彼らを苦しめたのは、洪水による水路や堤防の破損でした。
何日も要して掘った用水路が、一晩の降雨で土砂に埋まってしまったり、堤防が決壊してしまったりしたのです。用水路を掘り進める工事よりも、その修理に手間取ることが幾度となく続きました。いつしか枝下用水は「よだれ用水」と揶揄されるまでになり、思うように工事ははかどりませんでした。
完工式が猿投地区の越戸村で行われたのは、予定より一年遅れの明治二十三年(一八九〇)でした。この時点で完成した水路は、西枝下から越戸・挙母(ころも)を経て、再び矢作川に合流する幹線水路と、挙母から鴛鴨(おしかも)にいたる支幹線のみでした。水路建設が予定の半分程度にとどまったにもかかわらず、工費は予算額の二倍にあたる六万円もかかってしまいました。これは、用水路を掘り進める工費よりも、洪水による水路や堤防破壊の修復工事に費用がかかったためでした。
その後、県が枝下用水の開削から手を引き、完全に民間事業として行われるようになりました。さらに民間側も時田が事業から退き、明治二十四年(一八九一)以後は、西澤眞藏一人が残されました。この年中部地方を襲った濃尾地震で用水のほとんどが壊れ、修理に莫大な費用がかかったことがその要因であることは容易に予想されます。最高責任者としてその任を負うことになった西澤は、苦しい生活と洪水と戦いながらも枝下用水開削事業をあきらめませんでした。
- 用水路の難工事
- 洪水による用水路の修理
- ため池や山林などの払い下げ不調
- 不安を募らせた農民の反対
西澤を苦しめたこれらの問題から派生してくる、さらに大きな問題がありました。借金です。近江商人として、国内だけでなく海外にまで手を広げて巨万の富を手にしていた西澤でしたが、そのほとんどをこの枝下用水事業で使い果たしてしまいました。借金が必要になると、実業家の仕事を引き継いでいた弟の伊三郎に工場の売却を依頼して工面していました。あてにしていたため池や山林などの払い下げは、西澤や時田が予想していた以上に高価で資金繰りに大変苦慮しました。西澤を支えたのは、弟の伊三郎と地元の農民たちでした。竹村の鈴木三四郎、堤村の神戸源四郎、御船村の澤田虎一らの名前が残っています。彼らは、開削工事に携わるほか、反対する農民の説得にまわり枝下用水の完成に協力したのです。
更なる苦難の道と枝下用水の原点
枝下用水は、先行して建設された明治用水と共にその水源を矢作川に求めていたため、取入水量をめぐる紛争は避けられませんでした。枝下用水の受益者は、現在の豊田市域の農民でしたが、明治用水路の水は、さらに南部の安城の農民の水源になっていたのです。
枝下用水開削工事に入る前から、明治用水側は「枝下疏水(そすい)工事差止メ歎願」を県に提出していました。枝下用水取水口よりわずか十五〜六キロメートル下流にある明治用水取水口では、枝下用水に取水された残りの水量に左右され、多大な影響を受けていたからです。実際に、枝下用水の西用水が完成すると、両用水の水量の欠乏がますます深刻化し、両者の関係も次第に険悪な状態になりました。
高岡地区の農民が、枝下用水の取水口や牛枠(水流を調節する道具)を破壊から守るために、輪番で夜警に出掛けたという言い伝えが残っています。西澤もこの問題には大いに頭を悩ませ、枝下用水の原点とも言える西枝下の取水口に幾度となく改良を加えました。
昭和四年(一九二九)、西枝下の取水口から四キロメートル下流に越戸ダムが建設され、ダム湖に水没するまでの三十九年間、西枝下の取水口は豊田市域の田を潤した枝下用水の原点の役割を果たしてきました。そして、今なお西枝下の矢作川右岸に少し顔を出してその名残を留めています。水没した堰堤は、ダム湖の水位の低い冬場には、矢作川右岸に沿って累々と姿を見せることがあり、西澤の辛苦が偲ばれます。
用水路の完成と農地開拓の進展
ついに西澤は明治二十七年(一八九四)枝下用水の全幹線を完成させました。そして明治三十年(一八九七)財産を使い果たした西澤は、病に倒れこの世を去りました。五十四歳の若さでした。西澤は、 「巨額の資産を喪失したれども、幸に一望広濶(こうかつ)の荒野を化して美田を治めたれば、個人の財を失ふて国家の富の源を得たりといふべく、亦聊(またいささ)か慰むべし」 という言葉を残しています。
右の資料によれば、明治二十三年の完成式以降、全幹線完成させた明治二十八年の間に、枝下用水によって新しく開墾した田が十倍に増加しました。西澤をはじめとするこの事業に自分の人生を捧げた人々にとって、目の前に広がる新田の水面は、どんな宝石にもかえがたい輝きとなってその瞳に映っていたことでしょう。
西澤の没後、明治三十三年(一九〇〇)は、干ばつの兆しがあり、両用水の堤防や牛枠などを互いに破壊しあう事態が起きた年です。両者の争いは、これを発端とし行政訴訟に発展していきましたが、結果は枝下用水側の全面敗訴という形で決着がつきました。その後枝下用水は、私人の企業の用水経営から受配者が経営に参加する「枝下用水普通利水組合」へと発展しますが、大正十五年(一九二六)明治用水と合併するまで明治用水との対立と財政難という苦難の道を歩むことになったのです。
明治政府は、政府収入の増加を目論んで、殖産興業のもとに農地の拡大を奨励しました。その結果、愛知県三河地方は、明治用水と枝下用水の両用水によって明治十年代から三十年代にかけて農地の開拓が順調に進められました。特に、枝下用水がもたらす農業用水は、その後の豊田市における農業の発展に対して、大きく貢献したことは、言うまでもありません。左の平成二十二年〜二十三年の資料によれば、豊田市は米の作付面積、収穫量ともに愛知県下第一位です。豊田市は自動車産業だけでなく、農業もトップレベルと言えます。兼業農家がほとんどですが、自分の都合のよいときに、自由に枝下用水の水を使える施設の整備が行き届いていることがその要因の一つに挙げられます。西澤をはじめ、関係者の血と汗と涙で作られた枝下用水が、さらに後世の人々の力で発展し、生き続けていることに、これからも持続発展していく豊田市の可能性を感じました。
水神となった西澤眞藏
明治四十三年(一九一〇)、高岡地区の竹村では、西澤眞藏を水神として津島神社に祀り、以後毎年祭礼を行っています。
また、豊田市域には、この津島神社の他に十四もの寺や神社に西澤眞藏の顕彰碑が建立されており、この西澤への感謝の念が、豊田市を愛知県一番の農業立国へと押し上げていることに感銘を受けました。
おわりに ―西澤眞藏の原点―
「売手よし、買手よし、世間によし」
西澤は、出身地である近江商人の精神として、この「三方よし」の教えを実践した人物でした。売る人や買う人の利益だけでなく、商いを通して社会全体がよくなることが近江商人の神髄であり、長い年月をかけ求め続けたことが彼の生き様から伺えます。実業家であった西澤が、利益を目論んで枝下用水開削事業に出資したのは当然のことですが、水不足に苦しむ農民の姿や支えてくれた協力者の恩に報いるためにと、私財をなげうって用水路の完成に尽力した姿は、まさに「三方よし」の極みと言っても過言ではありません。
豊田市では、小・中学生の社会科副読本で西澤眞藏を取り上げ、自分たちのまちや文化の礎を築いた人の思いや精神を受け継いでいます。さらには、西澤を愛した人々の心にふれることで、郷土を愛し郷土の発展に寄与したいと思える人づくりに心がけています。今年も、豊田市内の小学校の学芸会では、西澤眞藏の劇が上演されることでしょう。
○主な参考文献等
- 「豊田市史 三」豊田市史編纂委員会
- 「豊田のあゆみ 新修 豊田市史概要版」〃
- 「しだれ用水」しだれ用水編集委員会
- 「勘八峡紀行」 勘八峡山水会
- 「西加茂郡誌」 西加茂郡教育会
○協力者
- 愛知郡愛荘町歴史文化博物館
- 豊田市郷土資料館
- 豊田市近代の産業とくらし発見館
掲載写真について
【滋賀県愛知郡愛荘町にある西澤眞藏の生家】
現在は、郷土の偉人館・西澤眞藏記念館として彼の功績を広く紹介している。(筆者撮影)
【西澤が18歳の頃に使用していた皿秤】(西澤眞藏記念館蔵)
【完成した素掘りの用水路(挙母の中心部)】(『しだれ用水』より)
【西澤眞藏と協力者たち 明治27年12月31日撮影】
後列左から澤田虎一(さわだとらいち)、神戸源四郎(かんべげんしろう)、木澤裕二(きざわゆうじ)、前列左から西澤伊三郎(にしざわいさぶろう)、西澤眞藏(にしざわしんぞう)、鈴木三四郎(すずきさんしろう)。
弟の伊三郎をはじめ枝下疏水(そすい)事務所員たちは、苦境に立たされた西澤眞藏を支えました。(豊田市郷土資料館より)
【今も残る明治期の枝下用水取水口】
「たたき工法」で建設された西澤苦心の取水口が、今なお、矢作川右岸にその姿をとどめています。(筆者撮影)
【西枝下に建設された 枝下用水取水口】(豊田市郷土資料館より)
矢作川の中洲で二つに分かれた川の流れ(中洲の下)が、取水口から枝下用水にもたらされました。水流を調節できる牛枠という道具の使い方が、争いの火種の一つとなりました。
【絵葉書が伝える枝下用水の堰堤】(個人蔵)
【枝下用水によって新しくつくられた田】(「愛知県下三大用水灌漑地地価修正事業沿革誌」より)
【愛知県内の米の作付面積と収穫量の比較】(『第58次東海農林水産統計年報平成22年~23年』より)
【西澤眞藏をまつる津島神社】(「しだれ用水」より)
【西澤眞藏を顕彰する石碑】(「しだれ用水」より)
【豊田市小中学生の社会科副読本】
小学校3年・4年、中学校の社会科の授業で西澤眞藏を紹介しています。(豊田市教育委員会発行)