初代東京駅長 高橋善一

三河の文化を訪ねて  第99回

- 豊橋-

初代東京駅長 高橋善一(よしかず)

豊橋市立細谷小学校長
白井 德英

乗客を大切にした車掌

高橋善一(1857~1923)高橋善一は安政四年(一八五七)年八月三日、渥美郡西伊古部村(現在の豊橋市伊古部町)に河合善七の二男として生まれた。後に赤沢村(現在の豊橋市赤沢町)の高橋家の養子として迎えられ、高橋さくと結婚した。

鉄道関係に携わったのは明治六(一八七三)年九月で、新橋保線科に下級駅夫として入ったのがスタートである。はじめは機関車の油差しの仕事をした。

続いて、神戸と大阪の間の車掌になった。当時の勤務ぶりはたいへん評判がよかった。例えば、席に座れず困っているお年寄りをみると、乗客に席を詰めるようにお願いして、空いた隙間に座らせてあげるようにした。また、駅に近づくと停車寸前に、車掌専用の昇降口からホームに飛び降りた。そして降りてくるお客さんにあいさつをしたり、お年寄りや赤ちゃんを抱いている母親の手を引いたりして安全に気を配った。

当時、鉄道の建設工事は多くの外国人が携わっていた。車掌はこれら外国人と上手に接しなければならなかった。こんなできごとがあった。西ノ宮駅で腕力の強い外国人が、酒に酔って車内で乗客四名にげんこつをくわせた。また、三ノ宮駅では上りの列車が発車しようとすると、窓から乗車した外国人がいた。どちらも高橋車掌が苦労して取り押さえた。

高橋車掌は外国人の扱いがうまかった。しかし英語は覚えなかった。構内で外国人に話しかけられると、得意そうに堂々とした笑顔で「イエス、イエス、オーライ」を繰り返した。そして、英語がわかる案内係を呼びにやった。そのかわり彼は「こんにちは」と「さよなら」だけは、英仏独伊をはじめ、世界十数か国語で話すことができた。

この仕事ぶりが井上勝(鉄道の国有化を進めた『日本鉄道の父』)の目にとまり、一生引き立てられることになった。

数多くの駅長を勤務

明治十三(一八八〇)年七月開業の初代馬場(現在の膳所)駅助役、十四年四月馬場駅長、十五年六月長浜駅長(十五年三月開業)になった。高橋善一の語るところでは、この駅長は柳ヶ瀬まで七つの駅長を兼務していた。たいへんきつい勤務のようだが、長浜と柳ヶ瀬トンネル間には、客車はたった八両くらいしかない。駅長は列車内で、バスの車掌のように白い札と赤い札を売った。

十九(一八八六)年三月、武豊線が開通すると武豊から熱田までの統括駅長、翌年五月に名古屋駅ができると、名古屋駅長を兼任した。高橋は鉄道創設以来、長浜駅長、高豊駅長、熱田駅長、大垣駅長、二十八年十一月五日、第三代新橋駅長(いまの汐留駅)を務めた。この間に、日清・日露戦争が起こった。そのため、新橋駅長時代は軍需物資の輸送に貢献した。この功績がのちの初代東京駅長就任へとつながったとも言われている。

東京駅の開業

旧東京駅大正三(一九一四)年、三菱が原と呼ばれた何もない原野に、壮麗なレンガの建築物ができた。この時代の人々が初めて見ることができた大型西洋建築物で、すぐに名所になった。

三十余年間出札係をしていた岡安千代さんは、できたばかりの東京駅のことを次のように言っている。一面の草っ原で子どもも遊んでなかった。終電車が出てしまうと駅の中は静まり返り、人は通らないし、外は真っ暗で山の中にいるようだった。

大正三(一九一四)年十二月十八日、東京駅開業式典で、大隈重信首相が次のように祝辞を述べた。「およそ物には中心を欠くべからず。なおあたかも太陽が中心にして光線を八方に放つがごとし、鉄道もまた光線のごとく四通八達せざるべからず、しこうして我国鉄道の中心は即ち本日開業するこの停車場にほかならず、ただそれ東面にはいまだ延長せざるもこれはすなわち将来の事業なりとす、それ交通の力は偉大なり。」

高橋善一駅長の人柄

高橋善一略年表高橋善一駅長は豪快であったが、部下に対してはたいへんやさしく接していた。そのことがわかる多くの逸話が残されている。
(一)信頼された駅長

  • 当時の総理大臣に「君さえいれば、鉄道は心配ない」と言われた。鉄道の現場に精通し、その鉄道生活の一生にひとつの過ちもなかった。
  • 戦前の鉄道記者は、鉄道関係の記事のネタ取りに、何度も高橋東京駅長のもとに出入りしていた。元新聞記者である作家の子母澤寛も、東京駅長は新聞記者をあしらうため、話上手な人が任じられていたと言っている。
  • 高橋善一は大阪駅、名古屋駅、東京駅とすべて駅長を務めた。長い在任中何一つまちがいのない人で、「駅の神様」と言われた。
  • 大正の初期には、大阪七代目の駅長坂本市松、京都の西松亥吉駅長と共に三大駅長と呼ばれ、外国人にまでその名を知られた。
  • 明治天皇は高橋駅長を「善一(ぜんいち)、善一」と言って呼んでいた。

(二)やさしい駅長

  • ミスをした部下を、その場で叱ることはなかった。別の部屋へ呼び指導した。一度東京駅で部下となって働いていた者は、長く自分の手許に置き面倒をみた。しかし、自分の気にいらない職員は、東京駅への転勤の辞令が出ても追い返した。
  • 十歳を頭に三人の子どもを残して死んでしまった職員がいた。家族をたいへん心配して、十歳の子を強引に東京駅の職員にして働かせた。当時でも例のないことだった。
  • 国技館での大相撲巡業には無料入場券があった。駅長の判が押されたものでなければならなかった。入場券をもらいに行くと「この大メシ食い、仕事もロクにできんくせに、このときだけ出てきやがって。」と悪口を言われた。駅長が退庁後ごみ箱をみると、無料入場券がわざと捨ててあった。これは駅長のはからいである。
  • 駅長官舎へ年賀に行くとたいへん喜ばれ、玄関に置かれたこもかぶりの樽からひしゃくで冷酒をもてなされた。
  • 夏の暑い日、駅構内で働いていた出札係が駅の中に風呂場建設の要望をした。高橋駅長は激しい口調で全員をカンカン照りの外へ、直立不動の姿勢で立たせた。そして、駅長自らも立った。炎天下で汗を流して保線作業をしている仲間のことを知らせる意図だった。 その後、構内に中で働く者も外で働く者もいっしょに入れる風呂を作った。

(三)豪快な駅長

  • 金銭を持ったことがなかった。いつもおつきの人が払っていた。
  • 高貴な方以外には敬礼をしたことがなかった。駅員の停止敬礼には無視。白い手袋の指が一本でもぴくりと動いたら、それが答礼で、駅員はそれだけで大喜びした。
  • あだ名は「カミナリおやじ」実によく怒鳴る人で、部下の仕事に少しでもミスがあるといつでも罵倒した。気に入らない立案文書は爪先で机からはじき出していた。いったん怒り出すと首席助役も内勤助役はすぐに駅長室を飛び出した。そして出札係のもとへ行き助けを求めた。出札担当は全員女子であった。出札主任はやさしくなだめると「あいつらばかもんじゃ。」と言いながらおさまっていった。
  • 口癖は「大めしくらい」「ドマヌケ」「大馬鹿野郎」「脳髄を働かせい」。とにかく口が悪かった。わがままを言い、よく怒鳴り散らしていた。しかし、真は人情味のあるやさしい人だった。
  • 二代目の吉田東京駅長との引き継ぎの時、テーブルを真ん中に吉田駅長は行儀よく座っているのに、高橋善一は両足をテーブルに乗せて、横着な格好をしていた。ふだん駅長室で新聞を読んでいて大臣が訪問したときも「おお、○○君か。」と言い、足はそのままでしばらくは下ろさなかった。

シウマイの崎陽軒を命名

崎陽軒のシウマイ久保久行は高橋善一の国鉄の先輩で、四代目横浜駅長をしていた。久保は鉄道界の名物男で、気性がさっぱりした親分肌の人物だった。退職後、収入がなく苦しい生活をしていた。それを見かねた後輩の高橋善一が手を貸した。収入を得る手段として、横浜駅に売店を出店することを勧めた。そのとき、大阪駅に構内営業権を持つ「水了軒」の松塚孫三郎と掛け合ったり、国鉄と出店許可交渉もしたりした。そして、創業のために費用もすべて出した。

明治四十一(一九〇八)年、久保は、一切の営業を松塚孫三郎に任せ、夫人のコトを名義人にして創業開始。横浜駅構内営業の許可を得て、牛乳やサイダー、餅などを扱う売店を始めた。マーケットを開いているわけにもいかないと、「崎陽軒」のシンボルを創ることになった。

江戸時代唯一の開港地だった長崎は、中国商人から「太陽の当たる岬」という意味で「崎陽」、「崎陽道」と呼ばれていた。久保は長崎で生まれたので、店の名前を付けるとき、これを利用した。

ネーミングは高橋善一と松塚孫三郎の合作である。崎陽軒が創業した明治四十年代の東海道線では駅売りの大先輩として、国府津に東華軒、沼津に桃中軒、大船に大船軒があり、弁当類を販売していた。一九二七年、久保は有名になっていた横浜南京街(現在の横浜中華街)を歩き、突き出しに出される「シューマイ」に目をつけた。そこで、南京街の点心職人「呉遇孫」をスカウトし、一九二八年三月、冷めてもおいしいシウマイを完成
させた。揺れる車内でもこぼさぬよう、ひとくちサイズとした。その後、横浜名物として多くのファンに支持され、一日約八〇万個も製造される超ロングセラー商品になった。

原敬首相の暗殺

原敬首相大正十(一九二一)年十一月四日、原敬首相は薄茶色の中折帽子、背広服を着て東京駅へ向かった。妻の浅は、原に厚手のコートを着せようとするが、面倒だとして背広だけで出発。この時、コートを着なかったことが、後になって、悲劇をもたらすことになる。

午後六時、東京駅改札口に、暗殺者の中岡が姿をあらわした。書生姿に扮した中岡は、雑踏の中に身を隠して原の到着を待った。原首相は午後七時二十分、東京駅到着。側近と共に駅長室に入った。

五分後改札口に向かった。先頭が高橋善一駅長、次が原敬首相、その後に国勢院総裁、文相、鉄道大臣などが続いた。護衛の注意は駅構内の雑踏に向けられて、中岡の存在に気づいていなかった。一瞬のできごとだった。円柱の陰に隠れていた中岡が、だしぬけに「国賊!」と叫んだ。原敬がその方を向いた途端、案内にあたっていた高橋善一駅長の肩をかすめ、いきなり刃わたり五寸の短刀を原首相の右胸部に刺した。短刀は薄手のシャツを貫き、肺から心臓にまで達した。すぐ後ろにいた吉植文部勅参が倒れてきた原首相を抱きとめた。中岡も折り重なって倒れた。原首相は一言も口を開かなかった。
しかし、目はまだ開いていたようであったので、周りの者は気絶していると思った。近くには警護者がいたが、あまりに突然のことで何が起きたのか分からなかった。厚手のコートを着て出かけていれば、致命傷にはならなかったかもしれない。高橋駅長も中岡につきとばされ腰の骨をひどく打った。そしてその場にしりもちをついた。自分がやられたと勘違いして思わず「やられた。」と叫んだ。

殺害現場跡すぐ駅長室に担ぎ込んで、大テーブルの上に寝かせ、応急の処置。短刀が、左乳の下方から深く右下に入って、先端が心臓に達しているので、胸腔内は大量の出血。しかし外部へは血が出てなく、傷もわからない。胸を開けてみたら赤縞のシャツに、九センチ四方にわたって血が染み出ていた。その下をみると左胸部に三センチほどの傷。医師の到着は、二十分ぐらいたってからである。カンフル注射、人工呼吸、いろいろ手をつくしたが、どうしようもなかった。妻の浅とともに到着した正木主治医が、「おかくれになりました」と最期を告げた。死亡時刻は、午後七時三十五分。ほぼ即死状態であった。

犯人の中岡良一は十九歳の少年で、大塚駅でポイント操作をする仕事をしていた。以前から原敬首相に対して批判的な考えをもち、原を殺せば内閣は倒れる、そうすれば、すぐによい政治が行われ、日本のためになると信じていた。

『原首相遭難現場』説明標識現在、東京駅丸の内南口の改札口前に、襲撃現場跡のプレートが設置されている。また、近くの壁には説明標識がある。

 

 

 

大滝水門で事故死

現在の大滝水門高橋駅長は、大正十二(一九二三)年三月、長く務めた鉄道人生から退いた。退職後まもない五月二十日午後三時前、オートバイの後ろに箱型の座席がついた軽便自動車に田端駅長と乗り、大滝橋近くの大洗堰を通過する時に事故が起きた。

乗っていた運転手を含む三名が、大滝を見ようとして、車の左側に寄った。そのためバランスを失って、車ごと堰から転落。それを見た通行人は協力して、大滝水門の番人と付近の交番に事故を連絡。すぐに警鐘を打ち鳴らし、水門を開いて水を落とした。高橋以外の二名は車から脱出し、近所の人に助けられた。高橋善一だけは車と共に水中に約二十分間も沈んでいた。引き揚げ早稲田病院に移して手当を加えたが、三時三十分絶命した。

彼の死を知り弔問には大隈重信、第二代東京駅長の吉田十一などが訪れた。二十三日の葬儀の際、棺は静かに東京駅を通った。駅前広場には、駅長など二百余名列をなし、棺に向かって合掌した。

彼の未亡人は運転手が過失罪で起訴されそうになったのを忍びないと、起訴猶予の嘆願書を提出している。

参考文献

『歴史の中の東京駅ものがたり』永田博 雪華社
『東京駅ものがたり』山口雅人 イカロス出版
『東京駅はこうして誕生した』林章 ウェッジ選書