奥三河の郷土史・民俗学の先駆者 夏目一平
三河の文化を訪ねて 第101回
- 北設-
奥三河の郷土史・民俗学の先駆者 夏目一平
設楽町立津具小学校長
村松 清和
はじめに
設楽町津具総合支所(設楽町津具字下川原五の一)の東端に銅像広場があり、通称「津具の七賢人」と言われる方々の胸像が設置されている。
①今泉浦治郎(国文学者)、②中村明人(軍人)、③夏目一平(郷土史家)、④佐々木味津三(小説家)、⑤村松乙彦(日本画家)、⑥熊谷弘(裁判官)、⑦長谷川悟石(書家)であり、ここでは、郷土史家の「夏目一平」を紹介する。
夏目一平の経歴
胸像のプレートには、
明治二十三年三月二十六日、津具村字能知一○○番地に生まれる。愛知二中(現県立岡崎高校)から愛知第一師範学校に入学し、卒業後、北設楽郡内の小学校に奉職した。郷土の民俗資料の発掘、収集、保存に尽力し、調査資料、論稿、遺稿等が多数ある。氏は柳田国男、早川孝太郎、折口信夫、渋澤敬三ら著名人と交流があった。
「津具村立民俗資料館」は、一平氏の篤志金を基に昭和四十四年に開館した。
氏は国指定の重要民俗資料一三○点と民具一二○○点余りを村に寄贈した。旧下津具村長、教育委員長など歴任。昭和四十一年に勲五等瑞宝章を受章。津具村名誉村民。享年八十九歳。
とあり、親しみを込めて「いっぺい」さんと聞くことが多いが、正しくは「かずひら」である。
一平は、父(伊録)と母(たま)の長男として生まれる。生業は農林業であるが、伊録は下津具村長に就いており、秀でて一平も村長、議会議員、教育委員長などの公職を務めることとなる。
一平は、師範学校卒業後小学校に奉職したが、明治四十五年(一九一二)三月、約一年半で退職している。
ところが、その後大正十一年(一九二二)の秋頃、夏目一平の名を世に問うことになる「鞍船(くらぼね)遺跡」の発見にたどり着く。このできごとは、一年後に、「鞍船遺跡調査結果」として、「考古学雑誌十四巻六一号」に窪田五郎(一平の義兄弟)と共同執筆されており、教職を辞して約十年、思うところがあって民俗学に傾注し、遺跡調査に着手したのであろう。
昭和三十二年(一九五七)八月に自費出版された「津具高原鞍船遺跡」の一文から一平の心情が読み取れる。
それは「ホシクソ」といって天からふった珍しい石ときかされ「鞍船に行くとホシクソがいくらでも拾えるぞ」と子供たちをよろこばせたのは、もうだいぶ昔のことであった。ホシクソとは今日の黒曜石のことで、その後、石鏃や、石匙や、石斧といったものまで、ぞくぞくと発見されて、そこは石器時代の遺跡であり、われわれの祖先である、大昔の人々が住んでいた跡と分かったのは、過ぐる大正十一年の秋頃であった。
鞍船遺跡の調査
鞍船遺跡は、設楽町津具字鞍船九ノ四・九ノ九番地にある。標高七二○米、面積およそ一万餘坪、西北から東南にかけて突出た鞍状の台地で、盆地底からの比高およそ三十米と記されている。
また、一平は次のように残している。
この見晴しよく、滔々と湧き出る清水もあり、日当たりがよくて、暖かく涼しい上に天然資源にもめぐまれているという。立地条件のすばらしい場所を撰んで群居を営んでいた古代の人々は、四囲の山野を駆けめぐって猪や鹿を追いまわしたり、木の実をさがしたり、盆地の底を流れる小川のほとりに漁りして暮らしていたものであろう。
この遺跡の学術的な発掘は昭和二十九年に行われた。調査活動には、専門家はもちろん、学校の先生や中学生が援助・協力を惜しまなかった。
昭和二十六年に津具地内の「大根平遺跡」が夏目一平や村松信三郎によって発見され、こちらが県指定文化財第一号であり、鞍船遺跡は第二号になっている。
前者が中期縄文時代であり、後者が前期縄文時代に属する。
北三河の遺跡発掘調査
一平は、大正十四年(一九二五)から昭和三年(一九二八)にかけて、「考古学雑誌」に北三河の遺跡を掲載し、郷土史家として活躍している。
鞍船遺跡とともにまず手がけたのが、現在、北設楽郡東栄町本郷にある櫻平(さくらだいら)遺跡の調査であり、「考古学雑誌大正十四年八月号」に窪田五郎と共同執筆で遺跡の詳細を紹介している。
その後、天竜川沿岸北遠、矢作川及び豊川の上流を丹念に調査し、当時、僅かに二、三しか知られていなかった遺跡を、凡そ六十か所「考古学雑誌」に掲載して人々を驚愕させた。
○天竜川渓谷
- 静岡県磐田郡天龍村…横山・西雲名・佐久間
- 北設楽郡三輪村…奈根・市原・畑・池場
- 北設楽郡下川村…川角・下田・市場
- 北設楽郡本郷町…櫻平・大森
- 北設楽郡御殿村…中設楽・月・柿野
- 北設楽郡園村…東薗目・御園
- 北設楽郡振草村…上粟代・古戸・古戸川合
- 北設楽郡豊根村…下黒川宮ノ元・三澤樫谷下・惣代・坂宇場
- 北設楽郡下津具村…平山・林・大桑・後山
- 北設楽郡上津具村…鞍船・行人原・井口
○豊川渓谷
- 南設楽郡新城町…杉山
- 南設楽郡海老町…海老
- 南設楽郡作手村…守義
- 北設楽郡段嶺村…三都橋折立・栗島・豊邦笠井島・桑平・田峯・田内
- 北設楽郡田口町…清崎五道・鹽津・田口萩平・中島・小松笹平・マサノ澤・添澤
- 北設楽郡名倉村…川向大畑・大名倉
○矢作川渓谷
- 北設楽郡武節村…武節町
- 北設楽郡稲橋村…中富宮平・日蔭・大野瀬柏洞・廣野
- 北設楽郡名倉村…清水・大平・東納庫市場
- 長野県下伊那郡根羽村…月瀬・根羽新町・萬馬瀬・小川
民俗資料の蒐集
鞍船遺跡の発見と相まって、大正十一年(一九二二)に夏目一平・窪田五郎ら有志は、「津具郷土資料保存会」を設立し、資料の蒐集に努めた。当初は、「村内の古記録、古文書、考古資料(遺物)、民俗資料(土俗品)などの郷土資料の蒐集をねらいとし、生業の道具など、主に山仕事、煙草、養蚕、中馬関係を集めた。
また、「天然記念物、史蹟なども集めて保存の方法を講じる」ことも企画した。
大正十三年(一九二四)には、「郷土に関する資料の収集、保存と、一般への公開、会員の研究発表、付属の図書室や資料を保管する建造物の建設」を企画し、後の郷土館建設へとつながっていく。
津具郷土館 | 横引き鋸(上)・ろくろ(下) |
大正末期から昭和初期にかけて、農山村の自力更生が叫ばれ、教育では労作教育や郷土教育が実践され、郷土室を作ったり、資料の蒐集を行ったり、郷土読本が編まれたりもした。これらの実践活動は、その後の郷土研究者を育成する素地にもなった。
夏目一平の真骨頂は、後の民具と称される土俗品の蒐集に一途であり、その先駆者であったことである。彼が集めた民具等は保管整理のために用途別に分類管理などが施されたが、一時的な措置として、昭和三十三年(一九五八)、自宅の養蚕室を改造して、収蔵庫を造った。階下が展示室、階上が図書室。「津具郷土館」と名付けられて一般公開に踏み切った。その後、昭和三十九年(一九六四)に、収蔵庫の「津具の山樵用具・加工品」の一三○点が国の重要有形民俗資料の指定を受けた。なお、昭和四十一年には各地より収集した民具が一二六二点整い、これを機に篤志金を添えて津具村に寄贈した。 そして、昭和四十四年(一九六九)に「津具村立民俗資料館」が新装開館した。
交友関係から見る人間性
昭和五十四年(一九七九)十一月二十四日(土)の朝日新聞(夕刊)の文化欄に、「民俗学徒の心の支え」の大見出しで、「夏目一平さんのこと」と題して「資料保存に黙々の足跡」と記している。筆者は千葉徳爾氏(信州・愛知・筑波大学教授)である。
「この人の名は古い民俗学徒にとって忘れ難い。愛知県北設楽郡津具村下津具在住、名誉村民、ご子息は現に村長をつとめておられるが、夏目一平の名を高らしめたのは、そんな血筋や政治的意味からではない。…地方の民俗文化の保存普及事業の功労者として、その名を没するわけにはいかない。三河の山奥にこういう方が住み、訪れればいつでも快く迎え、教えて下さるということは、民俗学を志す者の心の支えであった。」(略)「夏目さんは、初期の柳田国男先生の教えに従って、郷土の振興のために郷土の研究を志した若者の一人だった。柳田、折口の両先生をはじめ、渋澤敬三、有賀喜左衛門、早川孝太郎などの民俗研究者が来泊する定宿の観を呈した。」
一平は、郷土史家・民俗学者として、著名人との交流も多かった。考古学雑誌に共同執筆し義兄でもある本郷小学校長の窪田五郎氏、記者として活躍し帰郷して本郷町長となった林業家の原田清氏、「花祭」の著書で有名な民俗学者の早川孝太郎氏、そして、「屋根裏の博物館」を設立し、後に大蔵大臣となる実業家の渋澤敬三氏などであり、お互いに影響を受け合ってきた様子がそれぞれの日記等からうかがえる。
一平の日記の一部である「早川孝太郎関係日記抄録」によると、
①昭和二年八月十五日 晴
「午前中、早川孝太郎氏、古戸の某と来宅す。花祭の調査なり。長谷川紋治郎氏に頼ひ、後、畠山常六氏宅を訪問す。
下黒川神楽(七十二年前)を見たる唯一人なり。今八十七才なれば、十五の時という。白山とは二間四方( )ものの由なり。早川氏、よく話をけり。生まれ清まり、中申し、浄土まつりと三度ある由なり。夕方、帰宅後、早川氏と語る。」
柳田国男の紹介で渋澤敬三に出会った早川孝太郎が「支援は惜しまない。徹底的に調べてほしい。」という渋澤の激励を受けて夏目一平宅を訪ねたくだりである。早川氏の大著「花祭」刊行の三年ほど前のことになる。この時の調査は七年毎に行われていた大神楽で、当時すでに絶えて久しく、滞在四日間にして調査は難儀をしたようである。一平は村長に就任していた。
②昭和四年一月五日 晴曇時々雪
「午後三時、渋澤氏、早川、高橋(文太郎)、外一人(東京の人)と原田(清)、窪田、佐々木(嘉一)氏等、来着す。松島屋(金越)にて会食。熊谷(皓平)氏来たり。九人にて熊野神社舞屋に行き見物す。七時迄。窪田、原田と三人にて老平へ行き、古文書を見る。…」
文中、「渋澤氏」とあるのが渋澤敬三であり、渋澤が早川に導かれて初めて花祭りを見学した日の日記である。熊野神社は、豊根村上黒川にある。この時期、早川は「花祭」執筆の総仕上げに挑んでいた。すでに、その概要は渋澤に伝わっていたであろうし、「津具郷土資料保存会」を発足させていた窪田、夏目、原田らの郷土研究は、渋澤の知るところでもあったであろう。渋澤は、昭和四年の花祭りの見学から、昭和七年を除いて、昭和十年一月までの七年間、「花祭」を見学に来ている。「花好き」より上位に「花狂い」という呼称があるが、渋澤とその仲間たちの来歴は、心底「花狂い」であったかもしれない。一平の歓待は、この七年間、変わることはなかった。
何ら粉飾のない日記であるが、この出会いがその後の渋澤の「屋根裏の博物館」構想を決定付けたとも語られている。
また、一平はこの年の八月十七日の日録に、「サッコリ布団を送るつもりなれど、他は見合わせの予定なり。」と記しているので、他の資料と擦り合わせると、渋澤の「屋根裏の博物館」への収蔵品であることがうかがえる。
この日記は、昭和三十一年十二月二十四日、次の記事で閉じられている。
「午前十時頃竹下氏(多分)より電話あり。早川さん亡くなられた故、今日同志者、田口へ集まるようとの事で、十二時バスで行く。夫人智慧女史より「ハヤカワコウタロウ二三ヒシキョス」と知らせてきた由なり。竹下、杉林氏も来り。四人で語り合う。五時バスにて帰る。」
彼らの親交は生涯に渡っていた。
盟友、原田清は昭和二十二年、早川孝太郎は昭和三十一年、窪田五郎は昭和三十二年、渋澤敬三は昭和三十八年に死去。
そして、夏目一平は昭和五十四年に死去。年齢で言えば若干異なるが、同胞として奥三河の民俗の研究と郷土の教育を最後まで見守ったのが一平であったことが、各位への供養になったとも言えよう。
一平の著書
昭和六年(一九三一)から十五年にかけて発行された郷土雑誌「設楽」は、研究者の発表の場となっていた。
一平も同誌に「正月儀式記」(第十二巻)、「北設楽郡下津具村雨乞手記」(第十七巻)などを寄稿している。
戦後になると、一平は「北設楽郡史」編纂委員となり、郡史編纂委員が主になって編集した雑誌「設楽」に「菱やすりのこと」(一の一)、「掛塚鋸(のこぎり)とそのふるさと」(一の二)、「江州鋸のふるさと(一)(二)」(二の一、二)を寄稿した。「北設楽郡下津具村雨乞手記」の一説を紹介する。
「あしたは村中一軒残らず、蓑笠腰辨當で朝八時に学校へ集り、白鳥山へ登れ」…結局三日連続ということになり、村長から「もう明日一日今日の様に登山し、祈願せられたき事…」と言ひ渡す。…
六月十五日、四時頃起き、支度して家を出た。空は昨日よりももっと晴れ気味で、なさけないような上天気である。
…今日は最後の日故一人でも多く御神楽を上げる様にとの事で、素人同士交るぐ出て舞い続けて居た。
…昼少し過ぐる頃終った。ふと気づくと空は雨雲で覆はれ、今にも降り出しそうな空模様となって居た。
…午後一時頃かと思う。ぽつりぽつりと雨が落ちかかった。その瞬間群衆は総立ちとなった。続いて響動が起こり、忽ちに名状し難い混乱が起こった。
…狂気せんばかりに興奮した群衆は、十人、二十人と矢庭に御神楽の中になだれ込み、はては五、六十人も舞戸に狂喜乱舞する。遂には無面の鬼も沢山出れば榊鬼・禰宜もあり、にはか造りの獅子・おかめ・すりこぎ等勝って気ままに跳ね回る。中には火のついた太い焼木を担ぎ出すもの…雨は益々降り出した。人々の顔は皆、生々とかがやいて今は全く手の舞い足の踏む所を知らぬという喜びようであった。
…「天の神様御無理な願ひ、踊上げます水たもれ。」と云う歌を繰り返し繰り返し唄ひ続けて居る。(以上、抜粋)
おわりに
一平は、生涯にわたって、郷土の文化財保存に力を尽くした。鞍船遺跡も資料館も北設楽郡史も、津具の政治・文化も、一平を抜きにしては語ることはできない。一平を慕って、研究者たちが大勢来訪し、民俗学徒の心の支えでもあった。一平の資料保存の情熱は、県内のみならず、県外の人々も引きつけ、県境の郷土資料館を続々とつくりあげる原動力にもなったと言えよう。
○参考資料
- 「考古学雑誌」(日本考古学会刊)
- 「早川孝太郎関係日記抄録」夏目一平著
- 雑誌「設楽」(設楽民俗研究会刊)
- 「屋根裏の博物館」(横浜市歴史博物館刊)