戦国乱世を生き抜いた牧野古白とその子孫
三河の文化を訪ねて 第98回
- 豊川-
戦国乱世を生き抜いた牧野古白とその子孫
豊川市立東部小学校
山田 佳宏
はじめに
私の勤務校である東部小学校の校区は、戦国時代の東三河で中心的な役割を果たした武将牧野氏の発祥の地である。現在も多くの方が牧野姓を名乗り、この地で暮らしておられる。
牧野氏は、後に大名に取り立てられるが、戦国時代にその基礎を築いた牧野古白(こはく)の長男能成の子孫は、当時の牧野村に残り、その家系を明治まで残している。
屋敷は、牧野城の南約五百メートルの位置に建てられた。いつの頃か「讃岐屋敷」と呼ばれるようになり、今日、屋敷跡は公園となっている。東端には、鳳来寺から移築されたと伝えられる門が残されている。讃岐屋敷と呼ばれるのは、牧野氏の先祖が四国の讃岐から来往したと伝わることによると考えられる。
牧野氏と牧野城
牧野城は、牧野氏が最初に築いたとされる城である。牧野氏は、「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」によれば、初め田口姓を称する氏族であり、その一族は、源平合戦時において、平氏方についていたが、やがて源氏方にくだり、後に讃岐国に移り住んだとされる。
その後、応永年間に室町幕府四代将軍足利義持(よしもち)の命により、田口伝蔵左衛門成富(しげとみ)が讃岐国から三河国宝飯(ほい)郡中条郷牧野村(現在の豊川市牧野町)に移住して、牧野城を築き、牧野姓に改称したとされる。この頃の三河国は、一色氏が守護職を務めており、牧野氏もその被官として支配域を広げていったものと考えられる。
永享十一年(一四三九)、一色氏の一族である一色刑部少輔時家が宝飯郡長山郷(現在の豊川市牛久保町)に一色城を築いて定着し、その後室町幕府の奉公衆として勢力を持つこととなった。牧野氏はこの一色時家と主従関係になったと推定される。
牧野城は、標高九メートルの沖積低地にあり、周囲には過去何度も氾濫を繰り返した豊川の旧河道が認められる自然堤防上に位置している。発掘調査の結果、南北約一〇二メートル、東西は、北辺で約七二メートル、南辺で約八四メートルの台形状の形であることがわかった。いわゆる「掻き揚げ」城の形態であり、現在は、土塁と堀跡の一部が残されている。
城主は、牧野成富とその子古白、さらに古白の子能成の親子三代にわたったといわれ、牧野氏の拠点として機能したが、今橋城(吉田城)築城の永正二年(一五〇五)に廃城になったとされる。
一族の基礎を築いた牧野古白
牧野古白の「古白」とは法名であり、俗名は成時(しげとき)である。古白は、「武勇隣国ニ肩ヲ並フル人ナシ」(宮島伝記)といわれるほど、武将として優れていた人物とされる。文明九年(一四七七)に一色時家が同じ一色氏の被官波多野全慶(はだのぜんけい)に討たれるという事件が起こった。その後、古白は、今川氏親に服属し、明応二年(一四九三)、一色城の東二キロの地に瀬木城を築いた。瀬木城跡は、東側と西側には豊川の旧流路が認められ、自然堤防上に位置している。現在でも掘や土塁が比較的良好に遺存している。絵図によれば、城の東側に豊川が描かれており、当時の豊川が城の東側を流れていたとすれば、牧野城と川筋で結ばれていた可能性がある。古白は、瀬木城築城の同年に主君の仇討ちとして波多野全慶を灰野原において討ち破った。これにより、古白は波多野氏の所領を獲得し、一色城に入り、牧野城に長男能成を、瀬木城に次男成勝を置いた。なお、「牛久保密談記」には一色城入城にまつわる次のような話がある。
牧野城の殿様である牧野古白は一色城に移り住むため、おともの者たちを従えて天王社の手洗い、金色(こんじき)清水の窪溜りの近くにさしかかった。すると清水のかたわらに野飼いの牛が寝そべっており、往来の人々は皆、その牛をよけて通っていた。
ところが、殿様が通りかかると寝ていた牛がゆっくりと起き上がり、道をあけて殿様を通した。ご案内のため、お供をしていた長山郷の庄屋石黒九郎兵衛は、「これは、めでたいことの前兆です。世のことわざのように国主になられることうたがいありません。」と申し上げた。
殿様は、ことのほか喜ばれ一色城へ入られた。このときより一色・とこさぶの地を「牛窪」と改めた。その後、久しく栄えるようにと現在の「牛久保」の地名となった。
こうして、東三河進出の手がかりをつかんだ古白は、明応四年に恵林院義稙(前将軍足利義稙)の命により三河諸士の旗頭になったとされる「寛政重修諸家譜」。さらに、今川氏親から今橋城築城の命を受けたとされている「牛久保密談記」。ただし、近年の研究では、今川氏親が、三河に影響力を及ぼすのは、もう少し後で、郷土地誌「牛窪記」では、古白への今橋城築城命令を文亀年中(一五〇一〜一五〇三)として、先の「牛久保密談記」の明応四年説と比べると信用がおけるとしている。
いずれにせよ、古白は難工事の末、永正二年(一五〇五)に今橋城を完成させてその城主となった。また、その完成を祝して、今川氏親より柏の葉で神酒を三献いただき、そのことから代々の十六葉菊の紋を三ツ柏紋に改めたとされる。
古白が今橋城主となった翌年の永正三年、今川勢が突如今橋城を攻め落とした。その理由は定かではないが、田原の戸田憲光と古白は常に不仲であり、戸田氏が前年今川に従属していることから、戸田氏のために加勢したことが想定できる。今川氏親は自ら兵を率いて憲光と力を合わせて、今橋城を包囲、百余日の激戦の結果、古白以下一族を討ち取り、落城させたとされる。これにより今橋周辺は戸田氏の支配下に入り、再び豊川を挟んで牧野氏と戸田氏が対峙するところとなった。
文化人としての古白
古白は、武将である一方、連歌文芸にも秀でた才を持っている人物だった。当時、連歌師として活躍していた宗長とも交友があった古白は、「新撰菟玖波(つくば)集」に次の句が入集されている。
幾ほどの身ぞとはいかが
思ふらん
ひとひもいとへ老の世の中
また、「牛久保密談記」には、永正二年(一五〇五)の今橋城築城後に牛久保の熊野神社・八幡社・天王社の三社に参拝した古白が、熊野神社の桜のもとで宗長と詠んだ句が記されている。
花盛り心も散らぬ一木かな
(古白)
おぼろけながら有明の山
(宗長)
古白没後の牧野氏
古白没後の牧野氏は、永正十五年(一五一八)に古白の子である牧野三成、信成兄弟が今橋城を奪回した。戸田氏が西三河の松平氏との関係を深め、今川氏の命に従わなかったことから、氏親が古白を討ったことを悔やみ、再び今橋城を牧野氏に与えようと考えた結果である。三成は病弱のため、間もなく弟の信成に城主を譲り、信成は、亡父古白の菩提を弔うため龍拈寺(りゅうねんじ)を建立した。
享禄二年(一五二九)には一色城主牧野民部丞成勝(しげかつ)が牛久保城を築いて、牧野出羽守保成(やすしげ)を城主とし、牧野氏の勢力は回復した。しかし、西三河より進出してきた松平清康に今橋城を攻められ、天文元年(一五三二)信成始め一族七十余人はことごとく討ち死にした。以後、東三河の諸豪族は松平方に服すこととなる。
これにより、三河全域を制した松平清康であったが、天文四年(一五三五)に家臣により尾張守山で討たれた(守山崩れ)。その後、今川氏が東三河に進出し、やがて三河全域を支配していくことになるが、牧野氏は再び今川氏のもとで勢力を維持していくこととなった。
牧野氏の命運を決めた成定
牧野氏及び東三河の諸将にとって大きな転換期となったのが、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の合戦である。牧野成定は、大永五年(一五二五)に牛久保に生まれた武将で、二代目牛久保城主として今川氏に従っていた。桶狭間当時は、今川義元が落とした西三河の西条城(西尾城)の守将を命じられていた。義元亡き後、松平方に同城を攻められて牛久保に引き揚げたとされる。
翌永禄四年になると、今川方に属していた東三河の諸将は、今川氏を離れぞくぞくと松平元康(家康)に従った。その中で、牧野氏は元康の東三河侵攻に対して激しく抵抗した。今川に対する恩と今川氏真のもとにいる人質の命を考えてのことと思われる。永禄六年、元康は兵千五百で牛久保城を攻め、牧野出羽守保成を討ち取った。牛久保城は陥落したらしい。このとき、成定は既に心を松平方に寄せており、出陣せず遠江に退いている。
永禄七年の下地合戦では、松平方の先鋒本多平八郎忠勝が今川方の牧野康成(やすしげ)(成定の子)と戦い、共に傷を負った。康成は、かねて松平勢に加わりたい意志を伝えて別れたという。永禄八年(一五六五)になり、成定は正式に今川から離れ松平に従った。同年家康は、籠城していた吉田城へ牧野成定を酒井忠次と共に使者として使わし、和議開城の運びとなった。成定は、この無血開城の武功により家康からの信任を得ることになった。
病身であった成定は、翌九年に四十二歳で没するが、領内の経営にも力を入れ、領民にも慕われていたという。現在、成定のひ孫が江戸時代に建てた墓碑がさや堂に覆われて残されている。
牧野氏のその後
成定の病没後、跡目を巡ってその子康成は、旧城主出羽守保成の子成元らと争ったが、家康の裁定で家督を認められ、父の遺領を相続、三代目牛久保城主となった。その後、康成は、徳川配下の武将として各地を転戦し、天正三年(一五七五)の長篠・設楽原の戦いでは酒井忠次のもとで奮戦した。同年の今川方諏訪原(すわばら)城攻略においても軍功があり、そのため同城は牧野原城に改称されたという。その後も康成は数々の戦功をあげる中で、
諏訪原城・興国寺城・柾戸(まさと)城・長窪城の在番を務め、家康の東海道平定に寄与した。そして、天正十八年(一五九〇)の北条氏小田原攻めに参戦し、同年家康の関東移封に伴い上野国大胡(おおご)(現在の群馬県前橋市)二万石の藩主となり、以後牧野氏が徳川譜代大名として幕末まで活躍する礎を築いた。
康成の子忠成(ただなり)は、慶長十四年(一六〇九)に家督を継いで二代大胡藩主となり、大坂の役で戦功をたて、元和二年(一六一六)に越後国長峰(現在の新潟県上越市)へ移されて五万石を与えられた。
その後、長岡に移され、最終的には七万四千石の大名となり、その子孫は幕末まで長岡を治めることとなった。
歴代藩主は、神を敬い、先祖を崇める気持ちが大変強く、熊野神社や八幡社など先祖の地である牛久保の寺社に土地や金を寄進している。牧野成定公廟前の石灯籠や熊野神社の石灯籠などがそれにあたる。
おわりに
越後長岡藩は幕末、奥羽越列藩同盟に参加し、軍事総督となった河井継之助を中心に戊辰戦争で新政府軍と戦うが、敗れて領地召上の悲惨な歴史を経験する。
その後二万四千石として再興するが、窮乏を見かねた分家である三根山藩が見舞いとして米百俵を本家に送った。このとき、長岡藩の大参事であった小林虎三郎が、長岡を復興させるには人づくりが第一であるとする教育第一主義を唱え、必要な書籍や器材の経費に充てたのが有名な「米百俵」である。
また、明治に入り、断絶した山本家の家名を惜しみ、その跡を継いだのが山本五十六である。五十六が好んで書いた「常在戦場」の四文字は、牧野氏の家訓の第一条であり「参州牛久保の壁書」として、長岡藩士にとって、精神的支柱となっていた言葉である。
また、牧野村に残った子孫、紀昌成(通称牧野牛之助)は、初代牛久保小学校長として活躍し、先祖代々の墓地に碑が建立されている。
参考資料
「三河に興りし牧野一族」
「豊川の人物誌展」
「豊川の歴史散歩」(豊川市教育委員会)
「東三河の戦国時代」(鈴木 健著)