桃花亭お高と一僊舎の人々

三河の文化を訪ねて  第96回

- 高浜-

高浜の狂俳(きょうはい)文化の系譜
桃花亭(とうかてい)お高(たか)と一僊舎(いっせんしゃ)の人々

高浜市教育委員会学校経営グループ主幹
神谷 理

はじめに
祷護山観音寺(かわら美術館より望む)祷護山観音寺【注一】は、「森前の観音さん」とよばれ、知多半島の半田市亀崎と高浜を結ぶ衣浦大橋の手前の景勝の台地に立っている。昔から眺望がよいので、「祷護山八景」という詩と歌がつくられて(明和二年頃、一七六五年頃)、近年まで扁額として掲げられていた。その詩歌の作者の一人、桃花亭お高(号は萌角)の辞世の句が刻まれている墓碑が境内の西脇にある。
積石の寸法は、高さ五七㎝ 、横三五・五㎝ である。刻文字は浅く、表面はそうとう荒れ、極めて読みづらいものであるが、拓本をして、少々修正したものを見ると、

「一むかし二むかし過にし内に見し人も唯一塊の壊〈ツチクレ〉の主となれり 是多くは少年の墓と古人の詞を思ひ合するに又若干の数を添えもよしなし 即ち枯骨も此月のはじめ先たてし孫も同じ土に埋ん子孫亦おなじく此一墓のぬしと成りぬべし 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

羞しの 我や柳に 散りおくれ
         釈道桂(しゃくどうけい)」

とある。この墓碑の背面には「寛政四壬子年二月五日桃花亭」とある。〈一七九二年〉

陶製の観音像本稿では、狂俳【注二】の大宗匠として、三河尾張から駿河・遠州・京洛の地にもその名を知られた桃花亭お高について、過去の文献を紐解くとともに、お高没したのちも、この地にその流れを受け継いだ一僊舎の系譜についても述べていく。

 

 

 

 

 

 

桃花亭お高について

桃花亭お高の墓碑桃花亭というのは、石原於高善兵衛といって狂俳の宗匠の俳号である。号は萌角 戒は道桂。亨保十四年(一七二九)〜寛政四年(一七九二)。
昔「高浜こけても 石原こけぬ」(こける=倒れること)と言われたほどの豪商であった。その石原氏分家柄の出身である。市内にある恩任寺の過去帳に「寛政四年二月 釈道桂久郷(西浦の別名)に住む石原善兵衛 前句の達人 人惜しむ 六十四才」とある。

明治後期、西三河において、狂俳宗匠の一人と言われた高浜の湖月亭知奈美(神谷由兵衛)は、この桃花亭の孫弟子にあたる。この湖月亭遺稿によると於高伝を次のように記している。

「石原於高 姓源善兵衛 号ハ桃花亭萌角 本村ノ産 水流(森前の別名)ニ住居ス 亨保十四年生 寛政四年二月初五日六十四歳ニシテ没ス 石原於高祖宗ハ足利成氏【注三】ノ臣ニシテ古河没落ノ時此ノ地ヘ来ル 所謂 石原 山本 都築 神谷 石川等ノ八家ノ一ナリト云フ於高博学ニシテ多才 京都御歌所ニ出ル和歌俳諧ヲ善クス 尾州候紀州候ニ被為召テ恩遇ヲ得ル 囲碁ハ本因坊ニ不譲俳諧ノ則リ有テ入難キヲ和ラゲ冠句トナス 慈善ニ而邨中ノ土橋ヲ石トナス事八橋今尚存ス 然ト雖モ数代ナラズ絶家シテ記録ヲ失ヒ 帝尊号ヲ不伝 一説ニ後桜町天皇ト云 本州元和巳来 朝廷江風雅ヲ以テ被為召シ三人(石川丈山五十五、糟谷磯丸、桃花亭お高)其一人也ト云フ」

湖月亭遺稿からも相当な人物であったことをうかがい知ることができる。惜しいことに湖月亭の記しているように子孫は絶えてなく、その手跡も今のところ当市では未発見である。この碑文が桃花亭のものと伝えられているに過ぎない。

狂俳について

当地では、お高は前句【注四】の宗匠とか、冠句の宗匠とか、狂俳の宗匠だったと伝えられている。先述の恩任寺過去帳には、お高のことを「前句の達人云々」と記してあったことから、当時この雑俳【注五】を前句とよんでいたのであろう。また、お高選評会所本には、表紙上部に「誹諧」(俳諧)と記されており、狂俳とは記されていない。それでは前句と狂俳とどんなかかわりがあるのか。もちろん、雑俳であるので、雑俳の分類によって探って見ると、雑俳は誹諧から由来するものであり、普通雑俳は、四種類に分類される。

(一) 前句附

談林風誹諧から出て十四字の前句を題として、十七字の後句をつけて、単歌とした。この附句を連ねていったから連句とも言われた。前の句に附けるから前句附、これを略して前句とも言ったのである。だから前句附は二句立ての簡易誹諧で、元は俳諧の初歩として行われたものである。芭蕉が出て、元禄以降蕉風が盛んとなって、貞徳門談林風が流行しないようになった。そのため、この流派の宗匠は、前句附の点者を始めたと言われて
いる。そんな関係で前句附類は関西方面が始めで、江戸に流れて盛んとなったと言われている。

(二)川柳

柄井川柳が江戸中期(宝暦・天明の頃)前句附から独立させて、十七字詩の短句とした。すなわち、前句がなくても、意味のわかる軽妙な句調にしたのである。

(三)冠句(冠附・笠附)

五文字の題で七・五句の附句をするものである。湖月亭がお高追悼句の頭書に「冠句の鼻祖云々」と記していることは流れを知るのに参考となる。

(四)五文字

五文字の題で五文字の附句をするものである。狂俳は狂句ともいっているが、この雑俳のなかで狂俳の由来するところは、川柳の一種とも言える。冠句から発達して、題の五文字と附句の七・五とが一単句となっていったものであるといえる。また、誹諧のことを発句といった。それが明治に正岡子規が革新して俳句と呼ぶようになった。このことから、和歌に対して狂歌、発句に対して狂句、俳句に対して狂俳といわれるようになったも
のである。

雑俳の権威(俳諧とくに川柳系統の研究をしておられた)である元岐阜大学の鈴木勝忠教授は、「狂俳とは、文化十三年の「八橋奉納一軸」や天保七年」の「千賀の由縁」の形態としては、前句附を中心に冠・沓・折・天地などを含みながら、書名に「狂俳」を冠することから明らかのように、中部地方的な句風をもつ雑俳の別称である。だから、「狂俳・冠句」の名称が一番多く使用されているのである。お高以降の雑俳が、狂俳へ移行するのは、従来の雑俳の中に冠句式を一つ含むという、極めて自然な動きとして実行されたのである。」と述べている。

お高と川柳

お高・智角・川柳の関係年表先述の鈴木氏は、その論考『国語国文学』(一九六四年第三号)「三河高浜の雑俳 桃花亭お高について 」 の中で次のように述べられている。

「 高浜の会林「かしく」が尾張名古屋本町角屋庄蔵へ依頼し、木版のお高選評の句集が発行された。湖月亭の残稿の中に、

張附をして春まつや雪の梅 八橋堂 冬もながめも深きことの葉  お高

 八橋堂は、宝暦明和の冠句の名人である。お高は江戸からきた勇月堂智角が安城の高棚に居を構えていたことから、江戸調の俳諧を若いうちに学んでいたと思われる。また、石原家が江戸廻船を営んでいたことから、京都風の前句付けの古風を抜け、江戸の川柳調を消化して江戸的素材を取り入れている。お高が新風に敏感に反応し、前句の形式をとりながら脱皮していった点で、地方の雑杯壇の実態を示しているところに興味深いものがある。」と記している。

 川柳は、最初前句附の宗匠であったが、句調を軽妙な風に変えたので川柳点と世に称えられ、略して川柳と言われた。この川柳と人的には交渉はなかったと思われるが、川柳点とお高の前句狂俳と何らかの関連が生じているのではないかと思われる。当時の高浜の石原廻船が高浜港から江戸へ往来していたのだから、この方面の空気が地方としては割合早く伝わったと想像しても無理ではないと思う。

尚、お高の前号「萌角」を唱えたことから江戸調(川柳点と解してもよいと思うが)隣村高棚にいた勇月堂智角から得たかもしれない。

川柳の川柳点立机(句会の宗匠になること)は四十歳で、その時お高は二十八歳になる。お高撰評会所本が出版された安永元年(一七七二年)は、お高四十三歳で、撰者として世に出た始めであろう。
【お高・智角・川柳の関係年表参照】

お高の句

お高の句集というものは発見されていないが諸柵から拾い集めて見ると以下のとおりである。

冬がれもなくしげきことの葉  雫漂 安永一
冬のながめもふかき言の葉   安永四
香も一しほにはや咲の梅    家つと 安永四
名も冬ごもり浅き谷の戸    壺伝授 安永四
枯木にも師走を吹て風の音   壺伝授 安永四
詞の玉の塵つもる山      かまくら山 安永五
露しもしらす言の葉の奥    姿競 安永五
冬かれ見せぬ山の懐      かくれさと 安永六
木の芽木の芽に景色たつ山   喜見城 安永六
陰陽の峰月満り築波山     やまかづら 天明中
「かしく」の句
世の人の待にし蕎麦の鎌入れて 花の魁 安永五

一僊舎の人々

一僊舎の墓碑桃花亭お高のあとも、この流れが井上弥来以下、一僊舎の人々により明治・大正と受け継がれてきた。その系譜を以下に紹介する。

(一)井上弥来(夜来)
桃花亭お高の狂俳を一僊舎につなげた宗匠として詳細不明ながらも一僊舎の一人として挙げる。
宝暦六年(一七五七)〜 天保十年(一八二九)
(二)初代 一僊舎湖雪
安永五年(一七七六)〜 天保四年(一八三三)
神谷太十郎為則という。湖雪の三男である湖月亭知奈美の「湖雪の手記」には、以下のように記されている。

「湖雪は妹を背負って盆砂をもって習字帖となして学ぶ。桃花亭の門に入って狂俳を学ぶ。老父に孝養を尽くし雇人なりつつ貧学よく少学の師となる。ここに至って村民我が児を戒むる亀鑑となす。刻苦勉励孝養専化の人。森前の県神社の北側の眺望のよい高崖の地に住居する。」

 西三河各地会所の狂俳の会に招かれて撰者・評者となる。奉納句として、文化元年に知立神社・中畑八幡社に納めている。墓石は観音寺にあり、表面に「一僊舎」、左側に天保四年とあり、衣浦の海を眼下にしている。

(三)二代 一僊舎帰楽(神谷太十郎為信)
文化七年(一八一〇)〜明治十年(一八七七)。石油研究や狂俳宗匠として越前の北陸方面にも出張して活躍していた。越前福井藩主の松平春嶽と親交があり、「一僊舎」の揮毫をいただき、その扁額は、神谷純一氏宅に現存している。

(四)三代 一僊舎鴨橋(神谷文平明信)
天保一三年(一八四二)〜明治二二年(一八九九)地元の漢学者に漢詩文を学び、父気楽に狂俳・冠付を学ぶ。刈谷土井候に招かれ、藩校教授となる。晩年は父の石油事業に東奔西走しつつ、狂俳宗匠として点者評者に招かれた。

(五)湖月亭知奈美
神谷由兵衛常信、文政五年(一八二二)〜明治四十年(一九〇七)湖雪の三男、長兄の帰楽に狂俳を学ぶ。鴨橋が石油事業や狂俳宗匠として、東京・駿遠に出張が多かったので、代わって三河各地会所の句会に出席して、選者評者を務めたので「三河の狂俳の大宗匠」と称せられた。
湖月亭没後、追悼句会が明治四十三年に劇場千歳座において開催され、五日間に及んだ。墓石は高浜南部の高良山秋篠寺にある。辞世句「風あればこそ川越ゆれ秋の蝶」と墓石右側に刻まれている。高浜乞殿墓地に湖月亭揮毫の句墓碑が残っている。

一僊舎の扁額

 

 

 

 

 

終わりに

狂俳は、今から数えて二百五十年余の昔からこの高浜に伝統があり、明治時代の湖月亭知奈美宗匠のころ隆盛を迎えた時期もあったが、昭和に入って、全くこの流れは細流となり、消滅している。庶民の中で育まれてきた文芸文化やその史実さえも、時代の流れとともに忘れ去られようとしている。文芸方面としては、高浜における唯一の文化財なので、過去の文献を紐解く中で、郷土の誇りとする文化があったことを後生に伝えていく使命を感じざるを得ない。

用語解説

【注一】観音寺 現在鎮西派浄土宗の尼寺である。創建は不明。元禄十二年(一六九九年)古棟札に、「奉中與当観音堂一宇・発起頭岩月彦三郎、杉浦半十郎、石原茂兵衛・・・・」とある。
衣浦大橋架設前までは、観音寺から西へ下ったあたりは、観音下森前渡しと言って、知多亀崎へ渡る舟付場であった。
この寺の境内には、桃花亭お高の墓碑、一僊舎湖雪の墓、石原茂兵衛の墓がある。

【注二】狂俳 尾張地方に流行した冠句の一種。五七五を守りつつ、簡素・平明なもの。

【注三】足利成氏、室町時代から戦国時代の武将。第五代鎌倉公方(一四四九年〜一四五五年)、初代古河公方。

【注四】前句七七の結句には五七五をつけたもので、元禄時代に大流行した。川柳の前身。

【注五】雑俳鈴木勝忠氏解説によると、雑俳は、俳諧から派生した娯楽性の強い諸形式の総称で、俳諧の単位前句附を中心として、俳諧の地方化・大衆化に伴って独立し、一方では折句形式も 合わせて雑多にして細分化したもの。最も庶民的な文芸といわれている。

参考資料

  • 高浜市資誌〈三〉  昭和四十八年四月十日発行
  • 平成十三年度西三河・知多地方史連絡協議会研究発表大会資料

図1 一僊舎・湖月亭をめぐる系図