石川愛治郎 現代につながるタイムマシン『石川家住宅』

石川愛治郎  現代につながるタイムマシン『石川家住宅』

- みよし-

みよし市立中部小学校長
山北 淳

石川愛治郎  現代につながるタイムマシン『石川家住宅』

はじめに

石川愛治郎(1858-1927)石川家住宅は、平成二十三年(二〇一一)八月に建造物として、みよし市指定有形文化財に認定され、同年十一月には指定物件である主屋や長屋門、西蔵のほか、未指定である東蔵などの建造物群並びに指定範囲である敷地がみよし市に寄贈された。この寄贈に関して、特に注目すべきは、その建造物群だけでなく、その中に残されていた調度品や美術品、蔵書がすべて同時に、生活していた状況そのままに保存されたことである。

本稿では、約百年間の時間を閉じ込めたタイムマシンともいえる石川家住宅の歴史、今後の郷土学習教材としての可能性について紹介したい。

石川家三代の系譜

石川家住宅は愛治郎、正雄、恒夫の三代百年に渡って伝えられてきた。

石川家は、江戸中期から後期に代々庄屋を務める有力な農家であった。明治三年(一八七〇)頃には、愛治郎の父である九平が当地を治める西大平藩(※1)の領主から割元庄屋を任されている。一般の庄屋とは違い、苗字帯刀を許され、支配層に位置づけられる立場であり、ここから石川家の力の強さが分かる。

さて、ここからは石川家住宅に直接かかわる三氏について触れていきたい。

石川愛治郎(一八五八 ~ 一九二七)

愛治郎は、安政五年(一八五八)に生まれた。戸長や村長を度々務めて村政を担う一方、明治二十四年(一八九一)以降は、西加茂郡会議員も五期連続して務め、大正元年(一九一二)以降は二期に渡って村議会議員を務めるなど、地域に多大な貢献をしている。

また、明治三十年代には愛知農商銀行の三好出張所を開設し、実業家としての一面も有していた。

中庭から臨む石川家住宅石川家住宅は、明治四十三年(一九一〇)に愛治郎が次男である正雄のために建造したが、晩年はこちらを自身の隠居屋として使用し、昭和二年(一九二七)に没している。

石川正雄(一八九一 ~ 一九六九)

正雄は、愛治郎の次男として明治二十四年(一八九一)に生まれた。次男である正雄が新たな一家を成すために、愛治郎によって建造されたのが石川家住宅である。

正雄自身は、仕事の都合等により名古屋市で過ごすことが多かったが、晩年にはみよしの石川家住宅に戻り、昭和四十四年(一九六九)に七十八歳で没した。

石川恒夫(一九一九 ~ 二〇一一)

恒夫は、大正八年(一九一九)に正雄の長男として生まれた。昭和十五年(一九四〇)に慶應義塾大学経済学部へ入学し、卒業後、昭和十九年(一九四四)に東海銀行へ入行し、昭和三十八年(一九六三)には四十五歳の若さで取締役に就任している。昭和四十一年(一九六六)に退任し、千代田火災海上保険株式会社副社長等を経て、昭和五十三年(一九七八)に愛知に戻った。翌年には中京テレビ放送株式会社副社長に就任し、その後、社長、会長を歴任している。平成二十三年(二〇一一)に没するまで、晩年はこの地で活躍していた。

恒夫は、学生時代に不慮の事故により右足を切断することになるが、その後もスキー、野球、ゴルフなどのスポーツに親しむ一方、文化や芸術にかかわる活動にも積極的に取り組んでいる。特に短歌には造詣が深く、「金雀枝」に入会し、同会から歌集も出している。

また、読書家としても知られており、五万冊を超える蔵書は生前にみよし市に寄贈され、現在建設中の新市立図書館で「石川文庫」としての公開に向け、整理が進められている。

石川家住宅は、恒夫が東京から戻ってくる昭和五十三年(一九七八)頃に日常生活を営むための内装の大幅な改修が行われているが、外観はでき得る限り、原形を留めて行われたようである。恒夫が石川家住宅の保存を望んだことにより、文化財への指定と市への寄贈が行われた。

石川家住宅の構造

石川家住宅間取り石川家住宅は、愛治郎により明治四十三年(一九一〇)に建築され、度々の修繕が行われたものと考えられるが、記録に残るものとしては恒夫による昭和五十三年(一九七八)頃の改築がある。石川家住宅は愛治郎が晩年隠居屋として使用したが、その子どもたちについては生活の基盤が正雄は名古屋、恒夫が東京であったことから、昭和五十三年(一九七八)頃の改築以外には大きな変更はなかったものと考えられる。長屋門、蔵等の全体の構造としては明治末期の生活様式を今に残すものとなっている。

間取り図中の各建造物は上のとおりである。各建造物のうち、特徴的なものについて詳しく見てみたい。

長屋門

長屋門とは、居住するための長屋の一部分を通行のための門とした建造物である。身分制社会であった江戸時代においては、武士と特に許された地域の有力農民の屋敷に用いられている。

井戸の操作の実演に驚く本校児童石川家住宅の長屋門は、瓦葺で大扉の前に潜戸が設けられている。大扉の東側に居室があり、当時は使用人が居住していたようである。地域の古老に聞くと、かつてはこのスペースが教員宿舎の代わりとして利用され、若い教師が居住していた時期もあるとのことである。大扉の西側には味噌蔵や「井戸場」と呼ばれる水屋等が配置されている。この井戸の上には、高低差を利用して水を送るための樋が設置されている。また、ここでは様々な洗い物も行われていたと考えられ、その名残を、後に設置された水道などからうかがい知ることができる。井戸は現在も稼働しており、見学に来た児童に洗濯板、桶、石鹸の代用となる植物の種子による昔の洗濯の体験を可能としている。

東蔵の蔵書東蔵

長屋門を入るとすぐ正面に目に入るのが東蔵であり、元々は米蔵として利用されてきた建造物である。石川家住宅は愛治郎が次男である正雄の分家住宅として建てたものであり、分家に際して本家から田畑が分与されたため、米の収穫期には小作米が収められた。記録によると、東蔵には約五百俵の米俵が積まれていた時期もあったようである。

戦後の農地解放により米蔵としての役割を終えて以後は、恒夫の書庫として改装された。みよし市中央図書館が寄贈を受け「石川文庫」と名付けられた五万冊を超える書籍の大半はこの東蔵に収められていたものである。

主屋

東側の玄関から入ると、広い土間がある。土間を石張りに換えたり、土間の北側にあったクドをなくしたりする改修が行われているが、訪れる者に歴史の重みを感じさせるたたずまいを残している。

土間から上がると八畳の間が四部屋、田の字型に配置されており、その奥に位置し、他の部屋よりも床が高く作られているのが仏間である。仏間には格天井が施され、大きな仏壇が置かれている。仏壇の中心に阿弥陀如来立像が安置され、向かって右側に蓮如、左側に親鸞の絵像が掛けられている。石川家はみよし市三好町所在の阿弥陀寺の檀家であり、代々真宗大谷派の門徒であった。本来は絵像であるべき阿弥陀如来が、仏像で安置されている点から、石川家が阿弥陀寺にとって有力な檀家であったことが分かる。

座敷で説明を受ける本校児童仏間から廊下を進み、南に直角に曲がると十畳二間続きの座敷がある。冠婚葬祭に関する様々な行事を行う場所だったようである。二つある座敷のうち南側には床の間や違い棚、書院が設けられており、その窓から見える配置を工夫して庭園に大きな石灯籠の設置や植栽が施されている。このことから、この座敷が客人をもてなす部屋だったことが分かる。また、この座敷は現在では廊下でつながっているが、別棟であり、この座敷専用のトイレも北側に設けられていることなどから、主屋とは独立したものだったと考えられている。

現在、学級規模の人数の見学者に対する説明はこの座敷で行われている。昔の人たちが使った道具に触れ、「歴史の空気」を感じられる部屋で説明を受けることができるため、見学者の郷土の歴史に対する興味はとても高まっている。

外便所

建物内には家人用・来客用と二つのトイレがあり、庭に作られた外便所も残されている。これは石川家住宅が建造された明治末期の名残であろうと考えられる。人間の排泄物を肥料として使用する「下肥(しもごえ)」は、江戸期の農業生産を飛躍的に高めた。エネルギー効率が高く、栄養も豊富な下肥は、そのままでは窒素分が多く、植物にとって有害になってしまうため、いったん発酵させる必要がある。
そのため、江戸から明治にかけての農村では邸宅の南側にトイレを設置し、太陽光の力を利用して発酵を促していた。

現在の子どもたちの生活では、トイレが外にあること、また最も日当たりの良い南側にあることは理解しにくいことである。そのため、この外便所も調査活動につながる材料となり得る。

百年の歴史の中で、石川家には様々な生活用品や絵画、書籍等が蓄積されてきたが、逆に、ほとんど残っていない品物もある。たとえば、前述のように農業のために作られたであろう外便所を配しながら、農具に関してはほとんど残っていない。愛知用水が引かれるまで水不足に悩まされ、稲作の代わりに行われ、地域柄盛んであったはずの養蚕道具については皆無である。これは石川家が農業や養蚕を行ってこなかったことの表れともいえる。愛治郎は隠居生活を送り、正雄、恒夫は勤めに出ていたため、農地は小作人が耕作をし、石川家としては農業を直接行う必要がなかったと考えられる。農具が残されていないことは、石川家の社会的地位を物語る事象といえる。

石川家住宅と中央の歴史のつながり

前述の別棟の座敷は、どのような目的で建てられたのか、とても興味深い。というのも、座敷の廊下が、主屋の廊下とは異なり、歩くと音が鳴る「うぐいす張り」が施されているのである。推測の域を出ないが、この謎を解く鍵は石川家住宅が建てられた年にあると考えている。

日清戦争(一八九四年〜)以前から軍は絶えず演習を行い、兵を鍛錬するとともに実地戦闘の経験を蓄積して近代化に努めてきた。この流れの中で、明治四十三年(一九一〇)十一月七日から九日にかけて、第三師団・第十五師団による師団対抗演習が行われた。この演習で、八日午前、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)は高針村(名古屋市名東区)牧野池北方の御野立所で観戦し、午後二時過ぎから飯田街道を乗馬で平針村、三好村へと向かい、四時過ぎに三好第一尋常高等小学校(※2)に到着し、宿泊した。また、随員の閑院宮載仁親王や軍関係者は三好村内の医王寺や原田重助宅をはじめとする民家に宿泊した。

石川家に残る記録によると、この折りに軍の大島大将、鎌田大尉を泊めている。
宿泊所として使用したのが石川家の本家なのか、分家として建てられた石川家住宅なのかは、資料が残っていない。ちょうど石川家住宅が建造された時期が師団対抗演習の時期と重なることから、中央の軍人の宿泊を想定して作られたかもしれない住宅の来客用の座敷が、これにあてられたと考えるのが自然であろう。

中部小学校の校章※2 三好第一尋常高等小学校は、筆者が勤務する現在のみよし市立中部小学校である。本校の校章は「鶴」の羽に「三好」の文字が抱かれたデザインになっている。中国の故事で、皇太子のお召し車が「鶴かく駕が 」と言われたことにちなみ、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のご宿泊を象徴する意味で鶴の羽を配している。

 

 

石川家住宅の価値

私たちが暮らす「現在」もいずれは「過去」となり、長い年月を経て、民俗的あるいは歴史的な研究対象となるときが来るだろう。現在の私たちの生活をそのまま「真空パック」して未来に残すことができるならば、膨大な量の情報を伝えることができる。しかし、日常生活を続けながら、それを行うことは不可能である。現在の生活を資料として後世に伝える困難さはそこにある。

石川家住宅の価値はまさにその部分にあると考えられる。明治四十三年に建てられ、時によっては当主の生活のメインの場とはならなかったことが功を奏し、明治末期からの生活用品、収集された美術品などが当時の外観を残す建造物と共に残された。石川家住宅の建造物や残された品物を一点ずつで見れば、美術的価値、歴史的価値、伝統的価値等、資料的価値を見出し難いものが大半である。しかし、恒夫がみよし市への寄贈を決意する過程で重視した「この雰囲気をそのまま残し、後世に伝えたい」という思いが、市の有形文化財として、今後も時代を空気ごと封じ込めたタイムマシンとして結実し、機能し続けることになった。現時点での価値もさることながら、この先、十年後、百年後には今以上にその価値が高まるであろう。

また、子どもたちの郷土学習教材としての価値も忘れてはならない。自分で触れて、感じることのできる「タイムマシン」が身近にあることは、今後のみよし市の郷土学習に大きな意味をもつことであろう。

(敬称略)

展示品を対象にして学び合う本校児童○主な参考文献

  • 『新編 三好町誌』みよし市町誌編さん委員会
  • 『みよし市指定有形文化財石川家住宅一般公開記念 100年間のコレクション ―石川家に伝わるモノたち―』みよし市立歴史民俗資料館