立行司 二十六代 木村庄之助

三河の文化を訪ねて  第102回

- 幸田-

立行司 二十六代 木村庄之助

幸田町立坂崎小学校
山田 富久

立行司 二十六代 木村庄之助木村庄之助とは

相撲は古く神代より始まる神聖な国技です。木村庄之助とは、大相撲の立行司の名称です。相撲番付で言うと東の正横綱に当たり、行司の最高位でもあります。

本名 浅井 正軍配には紫の房、装束は明治以後は紫の菊綴じを着用し左腰に短刀を差します。短刀は差し違えをしたときには切腹する覚悟で臨むという意味があります。また右腰には印籠を下げています。力士が勝負に命をかけるのと同様に行司は判定に命をかけて土俵に上がります。以前は一場所二つ間違えると、次の場所には降下する制度だったそうです。昔は相撲の手は四十八手を原則としていましたが、新手が出て、今では八十手を超えます。それを覚え一瞬で判断するのです。難しい一瞬の判断ながら、土俵上で失策があると進退伺いを出すのだそうです。

代々受け継がれている軍配は「ゆずりうちわ」とも呼ばれ、二本あります。一本は一面に「知進知退 随時出処」もう一面に「冬則龍潜 夏則鳳擧」と記されており十三代庄之助以来のもの。もう一本は白檀製で一九七一年一月に宝塚市の清荒神清澄寺から贈られたものです。第二十六代木村庄之助となった浅井正は、常に「知進知退 随時出処」を心がけ、行司の道に精進しました。

木村 庄之助幼少の頃 〜八歳で迎えた転機〜

浅井正は、兄と妹と三人兄弟でした。家は貧しい農家で、四歳の時母を失いました。父が野良仕事にでかけるときは、妹と二人で、今日はここの親戚、明日はどこの親戚と、明け暮れ預けられる生活でした。豊坂小学校に入学したものの、一年生の三学期には中退し、妹と共に上京。遠縁にあたる井筒部屋に行司として入門させられました。小学校にも行かず、親方に読み書きを教わりながら、お相撲さんと共に生活しました。わずか七歳にして厳しく辛い修行が始まり、八歳で初土俵を踏みました。

無事これ名行司 〜浅井正の人柄〜

半世紀を超す土俵人生で、土俵に上った回数は一万回を超します。その間、健康第一で過ごし、本場所を一度も休むことはありませんでした。温厚な性格で、自分を抑えた冷静な土俵態度は後輩も見習うところでした。一瞬の裁きに全神経を集中させ、無心になり邪念をもたず、公平な判定をし続けました。また、負けた方を先に見て勝った方に軍配を挙げる、行司としての心がけを大切にする人でもありました。

行司の仕事 〜裏方に徹した忍耐の人〜

柏戸の断髪式 大鵬がはさみを入れる場に立ち会いました。 これも行事の仕事の一つです。行司の仕事は勝負を見るのみではありません。本場所が始まる前々日に土俵が出来上がります。その土俵が不浄で力士に怪我や過ちがあってはならないと、土俵祭りを行います。

相撲字(見出しの二十六代木村庄之助と記されている文字)という楷書を太くしたような独特の文字の練習もします。これは行司にとって大切な仕事です。相撲字を書くためには、力士が朝早くから稽古をすると同様に、先輩の手本を見て練習し、どうにか人に見せられるようになるまでには十年くらいかかります。

本場所になると、毎日の力士の組み合わせを協会審判長立ち会いの上で決めます。この中に行司も携わります。

土俵で勝負の決まった時にすぐ、「只今の決まり手は何々」と場内放送するのも行司の仕事です。八十以上の手を覚えて正しく判断することは修行を伴う大切な仕事です。

本場所が終わり、次の巡業に出ます。総員三百五十人ほどの編成で一か月位のことですから、乗り物の手配も大変です。巡業に間違いのないようにスムーズに打ち上げてくるのも行司の仕事なのです。一般社会と違い、階級がものを言い、番付一枚違うと虫けら同然という封建制の強い相撲社会の中、わずか八歳の初土俵から行司の最高位になるまで努力と忍耐一筋の浅井正でした。

相撲判定の難しさ 〜うっちゃりの判定は集中力で〜

平成20年3月春場所 豪栄道×把瑠都 豪栄道が把瑠都をうっちゃる相撲の判定ほど難しいものはないと浅井正は言っています。土俵の丸い中で双方が戦い、いずれどこで勝負がつくか分かりません。一寸も目を離せず、油断を許しません。中でも判断が一番難しいのは「うっちゃり」だそうです。相手に土俵際に押され、俵の上にかかとがついているかいないか。かかとを覗のぞいてみなければ分からないわけです。また、うっちゃりが難しいのは、活き体か、死に体かを見分けなければならないことです。
体が重なって、いくら先に足が流れようとも、胸と胸が合っていると同体ではなく、うっちゃってはいないということになります。胸が分かれると完全にうっちゃりと言うことになるのです。その判定を一瞬の間に行司が見るのですから、すごい集中力です。

また、もつれて土俵外に倒れる場合もあります。倒れても、倒れる前に掛け手をしていることもあります。投げを打っているとか、足で向こうの体を持ち上げているとかいう掛け手もあるのです。行司は昔からの言い伝えで「掛け手に六分の利あり」と聞いているそうです。掛け手を見、「まわし」から下を見て、良い見位置をとり、公平な判定で軍配を挙げているのです。

土俵わかせた信念の裁き 〜大鵬×戸田戦の物言い〜

昭和44年3月春場所 大鵬×戸田 物言いがついた一番昭和四十四年三月、春場所二日目
大鵬、戸田(後の羽黒岩)の一戦、大鵬は四十五連勝驀進中、戸田は元気いっぱいの頃でした。当時式守伊之助だった浅井正の言によると、「戸田が東の土俵の二字にまで一気に押していった。そこで大鵬さんがはたいて、土俵の俵をつたわりながら正面の方に出たわけです。その前に、戸田の右足が土俵の外についたわけです。
これを私は見まして、大鵬に軍配を挙げました。」しかし、物言いがつき、審判員五人協議の結果、行司差し違いで戸田の勝ちとなりました。大鵬の連勝はストップ。
「協議した結果、誰も大鵬が勝っているとは言わないのです。大鵬負けていると。そんなら、ここにある足跡はどうなりますか。私はもうここでやめても悔いはないと、辞表をもって協会へ行きました。」

ところが、翌朝の新聞が、行司軍配通り戸田の足が土俵外の砂をしっかりはたいている写真を掲載したのです。伊之助の位置取りの良さ、正確さが明らかになり、この裁き以後、ビデオ判定が取り入れられることになりました。

 

浅井正が裁いた 優勝決定戦総覧

昭和41年9月(13勝2敗)
○(東横綱)大鵬(上手出し投げ)柏戸(西横綱)● 

行司:第22代式守伊之助(のち第26代木村庄之助)
当たり合って大鵬が一瞬両差し、柏戸は左から絞って左四つとし、大鵬は上手を取った。次の瞬間、大鵬は思い切って右へ下がりながら上手出し投げを強襲、柏戸はついていったが、大鵬が肩を押さえた。柏戸が右手から落ち、大鵬は土俵を飛び出した。物言いがついたが、柏戸の落ちる方が早くて成立しなかった。

昭和44年7月(12勝3敗)
 ○(東大関)清國(浴びせ倒し)藤ノ川(東前5)● 

行司:第22代式守伊之助(のち第26代木村庄之助)
藤ノ川は玉砕戦法を取り、素晴らしいぶちかましから突き放して出た。踏み込みが悪く、腰高の清國は忽ち東に詰まり崩れかかった。しかしやっと立ち直った清國は藤ノ川の左を引っ張り込んだ。さらに清國は左からも引っ張り上げようとするが、藤ノ川は逆に身を沈めて両差しとなった。清國はここで右から外筈気味に豪力で押し上げにかかった。藤ノ川はこれを突破しようとしたが腰が砕けた。すかさず清國はのしかかってドウと浴びせ倒して決めた。

昭和45年11月(14勝1敗)
 ○(東横綱)玉の海(寄り切り)大鵬(西横綱)●

行司:第22代式守伊之助(のち第26代木村庄之助)
突っ張り合いとなったが玉の海が突き勝って右外筈から右で四ッ辻を取って体を寄せ、左に上手を引いて右四つ充分の体勢。大鵬の廻しが解けて玉の海は右を離し、ここで廻し待った。再開後、大鵬は左を巻き替えようとするが玉の海は許さない。玉の海は大鵬になお上手をやらず、機を見て西へ吊り身に寄り立てた。大鵬は逃れようとしたが玉の海は充分腰を落として寄り切り連続優勝を決めた。

昭和48年7月(14勝1敗)
 ●(東張横)北の富士(寄り切り)琴櫻(西横綱)○

行司:第26代木村庄之助
北の富士が右前褌を狙ってくると琴櫻は左前褌を狙って左を差し、右から強烈におっつけた。北の富士は上手が取れず腰が伸び、そのまま西土俵に寄り切られた。琴櫻は圧勝で 5回目の優勝を飾った。

昭和49年7月(13勝2敗)
 ○(東横綱)輪島(下手投げ)北の湖(東大関)●

行司:第26代木村庄之助
決定戦は輪島が狡猾な立ち合いから左下手、北の湖はそれをおっつけ、輪島はすぐさま右を巻き替える。北の湖が左をねじ込むと輪島は下手投げの誘い。北の湖は力に任せて正面に寄る。輪島はまた得意の下手投げ、北の湖は外掛けに掛け倒そうと右足を出すが、その前にでんぐり返っていた。

庄之助最後の美声  〜五十七年の行司生活に別れ〜

うちわ一筋57年 惜しまれ花道を去る五十数年間軍配を握り続けた木村庄之助の右手が心なしか震えている。

顔を真っ赤にした輪島が北の湖をにらみつける。北の湖はくちびるをグッとかんで胸をそり返す。両者の気合が最高潮に達した。そして、庄之助の軍配は無造作に昭和二十八年生まれの横綱にサッと上がった。横綱らしい力相撲で勝った北の湖の前で、庄之助の「キタノウミー」と言う最後の一声が大きく館内に響きわたった。明日の相撲界を背負う若手の成長を祈るように庄之助は花道を静かに去った。

北の湖が力強い抱負を語っていた頃、行司部屋では、庄之助が今まで身につけていた装束を静かに脱ぎながら「私が使っていたうちわが協会預かりになる。後継ぎができなかったことだけが寂しい。」と涙ぐんでいた。

(昭和51年11月29日の毎日新聞より)

 

母校豊坂小学校の土俵開き 〜未来につなぐ相撲の心〜

土俵開きでぶつかりげいこをする児童昭和五十七年二月二十五日、豊坂小学校で土俵開きが行われました。当時同校の学区では、村の祭りに子ども会主催の相撲大会が開かれるなど、相撲熱が盛んでした。「体育の授業にも相撲を取り入れたい。それによって心身共にたくましい子どもを育てよう」と父母らが交代で労働奉仕し、土俵を作りました。

土俵は四・九メートル四方、五十センチほど盛り土をして入母屋風の屋根をつけた本格的な造りでした。引退後、日本相撲協会の顧問を務めていた浅井正は、土俵開きに招かれ東京から帰省しました。

子どもたちに向かって「この立派な土俵で相撲をとって、元気な身体をつくるとともに、勉強もしっかりやってください。」と挨拶されました。

庄之助の装束 幸田町郷土資料館に寄贈

庄之助の装束  幸田町郷土資料館に寄贈式守伊之助襲名を祝して、幸田町と隣接市町村有志により三河後援会が結成され、夏冬二揃いの装束が贈られました。

昭和五十一年には、幸田町の名誉町民として表彰を受けられ、先に贈られた冬の町章入り装束は、浅井正の厚意により幸田町郷土資料館に他の資料と共に永久保存されることとなりました。

参考資料

浅井正氏講演記録、中日新聞、中日スポーツ新聞、毎日新聞、朝日新聞、中部読売新聞、優勝決定戦総覧、広報こうた、ヤフー検索画像